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旛上(はたあげ)聖人(日充)廟所

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 県道多古・八日市場線で日本寺大門前を過ぎ、旧中村役場の前を右折して南並木の方面に一五〇メートルほど南へ進み、さらに右折する農道に沿って一〇〇メートル西へ向かったところにあり、周囲は一面の畑である。孤立した状態の墓域は手入れが行き届いており、墓碑わきには大木が茂り、その年輪には歴史の古さを偲ばせるものがある。
 礎石を含めて高さは一・二メートルあり、正面に、「旛上日充聖人 御廟所 慶長七壬寅(一六〇二)正月十五日」と、その没年を示し、右面には「正東山本願比丘斈長日芳(日本寺四十九世) 南中村郷助力眞俗男女」、左面には「至元禄十四辛巳(一七〇一)相当一百 依之七月十五日 欽建」と刻まれている。

旛上聖人廟

 旛上日充について郷土史料からの詳細を知ることはできないが、多くの史書は学徳の高い傑僧、または奇僧として記している。今ここにそれらをまとめてみるとおよそ次のようになる。
 日充は岩部(栗源町)に生まれ、同地の安興寺の十世となって講座を開いたが、受講する学徒は海のごとくであったという。同寺は、後に佐渡阿仏房十四世・松崎談林講主でもあった日遣(寿量院)が十八世となっているが、その後二〇年間無住となり日台(体量院)によって再興された。しかし元禄四年(一六九一)の不受不施弾圧のため、改宗せざるを得なくなったようである。
 多くの学僧たちが参集して安興寺は盛況を呈したが、日充は常にその憒閙(かいとう)(みだれ・さわがしいこと)を嫌い、ある日ひそかに逃れて尾州(愛知県)の一古寺に隠れてしまった。そこでは水を運び柴を拾い、暇をみては法華題目を唱えて万物の幸せを念じ、他に仕事は持たなかった。
 その地にいること三年のある日、たまたま弟子の一人が修行のため同寺を訪れたとき、日充の姿を見て驚きかつ悲しみ、「私たちは師を失い、乳を奪われた幼児のように慕い求めております。何のためにここにおいでなのですか」と問うたが、日充は笑って答えなかった。
 後にまたこの地から能登(石川県)に移り、晩年になって故郷に帰った。終わりに臨み門人たちに「吾信力に依て無生忍を得たり。各自に努力せよ、切に棄暴することなかれ。汝若し信ぜずんは送葬の時を見よ、一つの旛(はた)天に昇らん、是を以て験(あかし)とせよ」と説いたが、果たしてそのとおりになったという。
 日充はその人となりは質素で、慈愛の心は万物に及び、衣服は古くなっても取り替えず、垢がつけば自分で洗って干し、その度ごとに虱を拾っては楮(こうぞ)で作った袋に入れておき、洗った衣服が乾けばまたそこに放したという。
 村岡良弼は『北総詩史』の中で、日充について簡潔に次のように述べている。
 
   日充
僧日充、巌部人。深通仏教、講経於安興寺。聴者成市。性厭名利、遁匿尾張。弟子来見、驚曰、我曹失師、慕求不已。奚為在此。日充笑而不答。去適能登、晩師郷里。衣敞不易。垢則自澣之。毎澣手収蟣虱、貯之楮嚢、衣乾放之。事見扶桑隠逸伝・仏祖統紀・野史・絵日本史諸書
   榮枯場外蛻形〓
   樹下巌陰了素懐
   誤被史家伝
   知師永却與心乖