礎石を含めて高さは一・二メートルあり、正面に、「旛上日充聖人 御廟所 慶長七壬寅(一六〇二)正月十五日」と、その没年を示し、右面には「正東山本願比丘斈長日芳(日本寺四十九世) 南中村郷助力眞俗男女」、左面には「至元禄十四辛巳(一七〇一)相当一百 依之七月十五日 欽建」と刻まれている。
旛上聖人廟
旛上日充について郷土史料からの詳細を知ることはできないが、多くの史書は学徳の高い傑僧、または奇僧として記している。今ここにそれらをまとめてみるとおよそ次のようになる。
日充は岩部(栗源町)に生まれ、同地の安興寺の十世となって講座を開いたが、受講する学徒は海のごとくであったという。同寺は、後に佐渡阿仏房十四世・松崎談林講主でもあった日遣(寿量院)が十八世となっているが、その後二〇年間無住となり日台(体量院)によって再興された。しかし元禄四年(一六九一)の不受不施弾圧のため、改宗せざるを得なくなったようである。
多くの学僧たちが参集して安興寺は盛況を呈したが、日充は常にその憒閙(かいとう)(みだれ・さわがしいこと)を嫌い、ある日ひそかに逃れて尾州(愛知県)の一古寺に隠れてしまった。そこでは水を運び柴を拾い、暇をみては法華題目を唱えて万物の幸せを念じ、他に仕事は持たなかった。
その地にいること三年のある日、たまたま弟子の一人が修行のため同寺を訪れたとき、日充の姿を見て驚きかつ悲しみ、「私たちは師を失い、乳を奪われた幼児のように慕い求めております。何のためにここにおいでなのですか」と問うたが、日充は笑って答えなかった。
後にまたこの地から能登(石川県)に移り、晩年になって故郷に帰った。終わりに臨み門人たちに「吾信力に依て無生忍を得たり。各自に努力せよ、切に棄暴することなかれ。汝若し信ぜずんは送葬の時を見よ、一つの旛(はた)天に昇らん、是を以て験(あかし)とせよ」と説いたが、果たしてそのとおりになったという。
日充はその人となりは質素で、慈愛の心は万物に及び、衣服は古くなっても取り替えず、垢がつけば自分で洗って干し、その度ごとに虱を拾っては楮(こうぞ)で作った袋に入れておき、洗った衣服が乾けばまたそこに放したという。
村岡良弼は『北総詩史』の中で、日充について簡潔に次のように述べている。
日充
僧日充、巌部人。深通二仏教一、講二経於安興寺一。聴者成レ市。性厭二名利一、遁匿二尾張一。弟子来見、驚曰、我曹失レ師、慕求不レ已。奚為在レ此。日充笑而不レ答。去適二能登一、晩師二郷里一。衣敞不レ易。垢則自澣レ之。毎レ澣手収二蟣虱一、貯二之楮嚢一、衣乾放レ之。事見二扶桑隠逸伝・仏祖統紀・野史・絵日本史諸書一。
榮枯場外蛻二形〓一
樹下巌陰了二素懐一
誤被三史家伝二一角一
知師永却與レ心乖