経塚記念碑
「経塚の一本松」と、その名を覇せし名松も昭和四十五年三月上旬、一夜の暴風雨により元枝に亀裂を生じ、遂に倒覆し、その雄姿は永久に消えたり。
その昔宗門改革により改宗せし諸宗派の経本をまとめ、玆に埋めその上に小松を植え経塚と称せり。
爾来六百有余年、竜蛇昇天の巨松となり「多古松」として幾歳月人々に親しまれし老松の名跡を後世に遺さんと、ここに若松を植樹し、この碑を建立するものなり。
昭和五十二年六月
多古町立中村小学校創立百周年記念
多古ロータリークラブ結成十周年記念
多古町教育委員会
経塚造立は平安時代の中ごろ、慈覚大師が唐から伝えたことにはじまるといわれ、末法の世まで経典を保存することを目的とし、王朝人の多くがこの思想の洗礼を受けたが、鎌倉・室町時代には極楽往生・現世利益の祈願・供養として行われるようになった。写経を経箱や経筒に納めて鏡・刀剣・貨幣などと一緒に土中に埋め、その上に盛り土をしたのが末法思想に基づく経塚の一般的なものである。
隣接の山田町谷津の経塚からは、大治四年(一一二九)作の経筒が発掘され、副葬品として瑞花・双鳳・八花鏡・垂飾・金具などが出土している。
このほか、小見川町分郷には、天正年中(一五七三~九一)粟飯原氏が祈願のために小石一つに大般若経の一字を記して埋めたという経塚があり、同町虫幡字皆畑の一小丘に「親鸞上人」と四字の刻まれた小石塔があるが、これは親鸞の書いた一字一石の経文を埋めたところであるという。また栗源町岩部字野馬木戸の塚のように、毎年七月十九日に題目経を誦するところから名づけられた経塚もある。
しかし、多古松といわれる大巨松の立っていたこの経塚はその趣を異にしている。
多古松(経塚)
『中村誌』は
元応二年(一三二〇)真言宗ノ経具ヲ埋メ塚ヲ築キ頂上ニ松ヲ植ヱ、一株ノ古松今尚蒼々トシテ天ニ聳ヘ、枝葉地ヲ覆フ。称シテ多古松ト云フ。
と述べているが、元応二年とは、一説に日本寺が日祐を開基として創建されたというその翌年である。日祐はすでに述べたように当地方を説法して、多くの寺院を改宗させているが、そのほとんどは正中・嘉暦のころ(一三二四~二九)と貞和(一三四五~五〇)にかけてである。
元応二年に塚が築かれたという説に従うならば、それ以前にすでに改宗した宗派の経文・経具を埋めたものとなるが、あるいは記録・口伝に残る以外の寺院のものであるのかもしれない。
しかし、宗門改革の旋風が吹き荒れた正中から貞和を経て正平(~一三七〇)ごろまでに改宗した寺院のものであるとするほうが、妥当性を持っているとも考えられる。とにかく改宗によって、それまで使用されてきた日蓮宗以外のもののすべてはここに埋められて、築かれた塚の上に一本の松が植えられた。以来六百数十年、見事な巨松となり、人々はこれを「一本松」とも、多古街道筋にあるところから「多古松」とも呼んだ。
この多古街道も古くはこの松の北側にあり、雨天の後などその葉蔭となって幾日も泥道のままになっていたという。一方、道行く人々にとっては良き道しるべであり、憩いの場所となったことでもあろう。
この多古松の在りし日の姿は写真に撮られ、町公民館に飾ってある。
『香取郡誌』は
中村大字南中字経塚耕圃中に在り、方四五間許の円形丘塚を為し、上に巨松樹一株あり呼て多古松と曰ふ。蓋し其の多古街道に衝(あた)るを以てなり。
伝へ曰ふ、此地古(いにし)へ天台真言の諸宗のみなりしが、日蓮宗諸宗の一たび法を此に説くに及び地方風化せざるなく、遂に他宗の諸経を此に埋むと
と記し、檀林の学僧龍江日深の詩を載せている。
多古松
形似二龍蛇一横二嵬峯一
独依二冬嶺一立二寒風一
千叢万木凋零後
貞操自清霜雪中