旧道南側の道祖神近く、椎の大木の真下にある。江戸時代の俳人露竹庵呂叟の句碑で、同じものが芝山仁王尊にもあり、平面自然石に刻まれた句は次のとおりである。「行雲能(の)やうに きえた起(き) 袮(ね)かひかな 呂叟 弘化三丙午年(一八四六)三月 露竹庵社中」
また、この句碑前に板碑があって
「 真翁道榮
翁氏原名靖休〓某侯之臣日向延岡之産 及移侯常之蓋間其歴族亦従彼地計翁也居数歳有故流曰諸国逐来此地 翁所〓之技芸許多諸 術数学遠術而無不極 其奥者雖然隠操深〓其技不〓乎 自作傘売肆間或馳銚海 八日市頃好事者諸学其術辞強諸密許之門下以百数 翁一日発急痾薬餌不応頓向終焉 于時寛政三辛亥(一七九一)七月二十有五日客死八日市肆店年六十有一 諸親友者驚慟馳駆請其屍帰葬里中 群墓傍立石聊状為後来其族来其墓者而且示不朽」
このように翁の履歴が刻まれている。
この呂叟についての詳細はわからないが、中村出身で天保のころ(一八三〇~四四)は多古本町に住んでいた。江戸末期の記録に「本町に天保の末頃まで六十あまりのおさよと言へる女あり、亭主俳階人にて俳名呂叟と言ふ、中村の生れか」とある。