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路傍の小祠・石宮など

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 集落内には、石塔・石仏・石宮・記念碑などが数多く散在しているが、ここには、その代表的なものとして主に道祖神を取り上げてみた。
 西谷の道祖神 多古から八日市場へ向かう県道沿いで、飯土井坂を登りきったところの左側にあるが、旧道でいえば、高田と現県道の北側を通る旧街道とを結ぶ道筋で、小さな石宮と記念碑ようの石柱が併立している。地番は字飯土井台一三八六番の二である。
 昭和の初期、ここには楠の大木が繁り、その葉蔭には街道を往来する人たちの利用した茶店があって、定期馬車(「テート馬車」とも)のために「立て場」と呼ばれた停留所もあった。
 石宮には「道祖神  政四壬 (寛政四年)」、碑には「南無妙法蓮華経道  客路無難行人有  妙道遠沾神護寧 正東山間西谷土人柳下 柴田 小  高森 鈴木等五六輩相議募覓多  財干若緇若自以造立為異同福  円成文久元酉(一八六一)秋九月中浣」とそれぞれ刻まれている。
 新田の道祖神 日本寺入口前から、北に曲がる旧街道を入ると、左に杉林に覆われた日本寺境内が続き、右は椎の古木が林立する墓地となっている。
 この道は前記のように旧街道で、その証左ともいうべき石碑が道路の墓地側に並んでいる。その一つに「台坂 台坂ヨリ六所神社前ニ至ル延長四七〇間 大正 年三月 工費一八〇〇円 道路改修寄附者渋谷   大正八年三月 中村建之」とある。
 これから十二、三歩離れたところに牛馬の守護神として知られる馬頭観世音塔(高さ三八センチ)があり、これには「馬頭観世音 昭和三年三月 馬持中」とある。
 同所に石造道標があって、「南無妙法蓮華経 西さくら たこ ゑど 南まつ山 八日市場 九十九り てうし道 北いいだか まつさき やまくら(山倉)みち 天保六未(一八三五)十一月吉日 南中村願主佐左衛門内まち」と刻まれており、参詣に訪れる旅人たちの便に供したものであろう。
 壺岡城主平山季邦墓地への入口で台坂東側のところに、玉垣に囲まれ、木造鳥居の建つ北向きの道祖神がある。この社は特にその御利益が大で、手足を病む人は社前に積まれている小石を借りて、その痛むところをさすると、たちまち快癒するという。そして、治った人は小石の数を倍にして奉納する習わしである。
 現在も十月十七日の秋祭りには、新米で作った甘酒を竹の小筒に入れて供える。平素の供物・清掃なども、他には見られないほど行き届いてみえる。ここの所在は字新田一八〇二番である。
 芝の道祖神 字芝一七五七番の四にある。県道多古・八日市場線が南中で小見川線へ分岐するが、その分岐点を三〇〇メートルほど進むと、バス停「宿」のところで旧道と交わる。この十字路のところが宿・横宿・芝の境で、東側をゆるやかに登る道路に沿って芝の集落がある。
 集落を縦断する道路の出口で、再び県道多古・八日市場線と接するところの西側に板碑とともに小さな石宮が十個ほど並んでいる。これが芝の道祖神である。県道が造られる以前は街道筋に当たっていたのであろう、道祖神が祀られるに相応の位置である。
 この社も足の痛みに霊験があるといわれ、奉納された小石が積まれている。なおこの小社の管理は同地の柴田五左衛門家でなされているが、なぜ同家が管理するようになったかについては、当主も知らない古い習慣であるという。
 併立する板碑には次のように刻まれている。「道祖神 春日大神 維時明治三十二亥歳旧九月三日 暴風雨ノ為メ御神木折レ倒セシヲ以テ 第二ノ御神木ヲ植テ以テ玆ニ記念トスル」。
 中城坂の道標・道路改修碑 所在は字中城二八番の三である。県道多古・八日市場線は、前記芝の旧道と合流するあたりが坂のほぼ中ほどで、さらに長い下り坂が水田を横断して南借当の集落へと続く。この南借当入口のところで北から下って来る旧街道と接するのであるが、この地点に二基の石柱がある。すなわち道標と道路改修碑で、それぞれ次のように刻まれている。「東吉田 豊栄 福岡 旭  飯岡 銚子道 西多古 成田 酒々井 佐倉 東京 北常盤 小見川 栗源 香取 佐原 寛延   」。「中城坂 道路改修寄附者渋谷嘉助 大正七年八月竣工 工費二六〇〇円 延長一六四間 大正八年三月中村建之 昭和四十二年一月改修 鴻之巣 唐竹部落」。
 唐竹の道祖神 字唐竹一三三番の二にある。前記の中城坂を登り、畑の中(旧街道)を通って行くと、道路西方に鴻之巣の民家が続いて見える。六所神社前に通ずる道路で家並みが終わるころ、雑木の繁った小さな塚があり、そこに二基の石宮が安置されている。
 その右側のものが道祖神である。それには雨覆いがつけられ、「道祖神 寛政十一年己未(一七九九)九月吉日」と刻字されている。
 左側のものは日蓮宗の守り神であるといわれ、「 正大明神 天明元年(一七八一)十一月吉日」と刻まれている。
 以上、集落内にある主なものを記してみたが、未発見のものや、さらに重要な内容の洩れ落ちがあると思われるので、それは今後の調査・研究にまちたい。
 南中については、主として寺院関係を中心に記述するかたちとなったが、それは貴重な資料も多く、特に記録して残したい内容をもち、また村人たちの生活とともに刻まれた歴史そのものと思われるからである。
 そのほか、産業経済・風俗習慣・諸行事などについては隣接する他集落のそれとほとんど変わることもなく、また記録すべき事柄についてはこれまでの中に織り込んできたつもりでもあるので、史料を参考としながら読みとっていただければ幸いである。