現在の多古町は、栗山川および沿岸の水田によって東西に二分されている。その東側台地の半分に近い面積を占めているのが旧北中村で、村内はさらに六つの集落に分かれている。久保(くぼ)・北場(きたば)・神行(かんぎょう)・谷津(やづ)・宮(みや)・坂並(さかなみ)がこれである。
このうち、北部の南玉造に接した集落が坂並であるが、ここはその成立が特異で、昭和二十九年の町村合併までは集落内が中村と常磐村に分かれ、それも普通考えられるように、主要道路・河川などによって区分されたものではなく、櫛の歯状に一、二戸ごとに所属の村を異にしていたのである。
これは、貞享三年(一六八六)にはじめて集落となったとき、個々の家がそれぞれ出身地の親村へ帰属したことから、このようになったといわれるが、今でも北中と南玉造にほぼ半数ずつが所属している。ちなみに、新戸籍が編制される直前(明治四年)に、北中村に属していたのは、桐谷氏二軒、宮内・関口・五十嵐・鈴木氏がそれぞれ一軒ずつであった。
この坂並の南側に、多古から山田町へ通ずる県道があり、その東側に谷津・宮と続いて八日市場市に接し、西側に入って北場・神行・久保がある。これらは現在、それぞれが集落としての自治組織を持つと同時に、北中西部・北中東部の二区を形成している。
昭和五十九年十月現在の面積・人口などは次のようになっている。
宅地 二八町一反一畝
田 十二四町五反五畝
畑 九三町八反九畝
山林 一四一町七反三畝
原野 二町五反六畝
池沼 二反二畝
その他 二町三反六畝
計 三九三町四反六畝
世帯数 一九九戸
人口 八五五人 内 男四一八人 女四三七人
こうした人口と農地が形づくられてきた過程はどのようなものであったのか、いまにしてはその詳細を知るすべもないが、さいわい残されていた古文書の中から拾ってみると、古い時代の村の耕地を知ることのできる資料として、貞享三年(一六八六)九月に、長嶋与一左衛門・星野平左衛門の両名によって作られた『下総国香取郡千田庄北中村水帳』があり、さらに、各集落ごとの詳しいものとしては、元禄三年(一六九〇)十月に右と同じ役人によって作られ、村役人として利左衛門・角右衛門・伝三郎・市兵衛・勘三郎・半兵衛・助左衛門・庄兵衛・四郎左衛門・源兵衛・甚兵衛・清兵衛・甚右衛門・平右衛門・徳左衛門が立ち合った文書『下総国香取郡千田庄北中村之内谷(谷津)水帳』と同じく、久保・北場・宮・坂並の分がある。神行が記されていないが、同じ浄妙寺門前地として北場と同様に扱われていたからであろう。
この水帳の内容は次に掲げるとおりであるが、ここで定められた村高は、明治に至るまで変わることなく年貢の基礎となっている。
北中村之内久保
一、高弐百三拾八石七斗壱升壱合 本田畑辻
高拾石四斗六升壱合 新田
〆弐百四拾九石壱斗七升弐合
反別合三拾壱町弐反七畝拾歩
内弐拾町八反廿九歩 田方
分米百九拾七石五斗四升三合
拾町四反六畝拾壱歩 畑方
分米五拾壱石六斗弐升九合
(屋鋪五反歩 分米五石を含む)
外除
一、壱畝歩 蔵屋敷
一、上田廿歩 弁才天
谷之内
一、下田八畝歩 弁才天
同所
一、下田四畝拾歩 弁才天
同所
一、下田六畝歩 六所明神
同
一、下田壱畝廿五歩 長七
同所竿終之地故除之
一、下田壱畝八歩 平右衛門
同所右同断
一、下田壱畝三歩 辰之助
一、上畑三畝六歩 六所明神
一、上畑壱畝拾八歩 同
一、壱畝六歩 本福寺々中
一、上畑拾歩 同
一、六畝歩 妙福寺々中
一、三畝廿歩 佛光寺々中
一、弐畝廿歩 同内畑
北中村之内中場(北場)
一、高弐百九石八斗七升 本田畑辻
高三拾四石五斗九升六合 新田
〆弐百四拾四石四斗六升六合
反別合弐拾七町八反八畝九歩
内拾七町四反七歩 田方
分米百八拾七石三斗七升弐合
拾町四反八畝弐歩 畑方
分米五拾九石九升四合
(屋敷五反八畝廿弐歩 分米五石八斗七升三合を含む)
外除
一、壱畝拾八歩 蔵屋敷分
松の下
一、下田 四畝拾五歩 弁才天
同所
一、下田 四畝歩 同
同所
一、下田 四畝歩 妙見
同所
一、下田 四畝歩 山王
すゝ宮
一、下田 弐畝歩 八幡
中内原
一、上畑 壱畝拾八歩 六所明神
同所
一、上畑 壱畝歩 同
向之内
一、中畑 六畝歩 弁才天
同所
一、中畑 弐畝拾八歩 妙見
同所
一、中畑 弐畝拾弐歩 同
同所
一、中畑 弐畝拾歩 同
一、五畝拾歩 六所別当房中
屋敷
一、上畑 壱畝弐歩 竿終地故除く
十兵衛
同所
一、上畑 壱畝歩 竿終地故除く
甚兵衛
内畑
一、上畑 壱畝歩 竿終地故除く
六兵衛
北中村之内宮
一、高三百三石九斗 本田畑辻
反別合三拾町九反三畝廿歩
内拾八町七反九畝九歩 田方
分米弐百拾壱石九斗七升四合
拾弐町壱反四畝拾壱歩 畑方
分米七拾五石八斗四升七合
(屋敷六反三畝拾歩 分米六石三斗三升三合を含む)
外除
一、中田 弐畝拾弐歩 春日明神
一、下田 拾八歩 同
一、三畝壱歩 妙浄寺内
一、七畝拾歩 同寺内畑
一、上畑 壱畝六歩 六所明神
一、三畝六歩 常顕寺内
一、壱畝歩 蔵屋敷
北中村之内谷(谷津)
一、高百三拾石六斗弐升 本田畑辻
反別合拾三町四反五畝四歩
内七町七反拾壱歩 田方
分米八拾八石三升五合
五町七反四畝廿三歩 畑方
分米三拾六石六斗八升六合
(屋敷四反五畝五歩 分米四石五斗壱升七合を含む)
外除
一、壱畝五歩 蔵屋敷
一、弐畝拾歩 妙観寺々中
さふや
一、中田 壱反歩 弁才天
北中村之内大鯉新田(坂並)
(この分は貞享三年(一六八六)現在)
一、高三拾九石五斗壱升 新田畑辻
反別合六町三反九畝拾七歩
内五町壱畝六歩 田方
分米三拾五石八升四合
壱町三反八畝拾壱歩 畑方
分米四石四斗弐升六合
(屋敷三畝廿八歩 分米三斗九升三合を含む)
この水帳に基づく北中村全体の面積は次のようになる。
田 六九町七反二畝二歩
畑 四〇町二反一畝二八歩
総高 九六七石六斗六升八合
これを現在と比較してみると、田畑については、実に二倍にも及ぶ面積増が見られる。これは、貞享以後およそ三〇〇年の期間において開拓されたものであるということになる。