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村の支配者

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 いつ、誰が、どのように支配して来たか、『中村誌』などの文献には長元のころ(一〇二八~三七)は平忠常の子中村太郎忠将が「匝瑳の長者」または「太太(だいた)の長者」と称して坂並に居住していたとか、また、その一族である中村小太郎常方が、「中城」を造って居城とした(永承元年―一〇四六―)ことなどがあげられている。
 次に、千葉介常胤が頼朝から当地方一帯を与えられて領主となったことは前述のとおりである。しかし、板碑または寺社縁起などによっても、最もその名が知られているのは、飯土井台に城を築き、芝の得成寺・西谷の東福寺を創建して日本寺中村檀林の基礎をつくり、久保に住居していたことから「窪殿」と呼ばれたという常胤の同族・千田庄領主千葉胤貞であろう(胤貞については、通史編および日本寺の項参照)。
 その後、中城におり千葉一族の内紛のとき、胤直に従って滅びたといわれる中村但馬守があり、里見・正木勢の侵攻を経て牛尾胤仲の守護を受け、天正十八年(一五九〇)北条氏の滅亡とともに徳川時代を迎えることになる。
 徳川氏が関東を領してから、保科正光・土井利勝などがこの地に入り、以後は代官支配が続いた。そして、寛永十二年(一六三五)に松平(久松)勝義が多古藩主となってから、嘉永三年(一八五〇)勝行のときに領地替えとなるまで、江戸時代の大部分は松平氏の支配が続いた。松平氏の詳細については通史編および多古の項に記述されているので、ここでは重複を避ける。
 松平氏は、領地の大部分を陸奥国へ移されたが、南中・南並木・南借当・多古・井野の五カ村は引き続き所領を許され、北中村は館山藩主稲葉正巳と幕府直轄の代官とに分割支配を受けることになるが、その内容は次のとおりである。
 
  館山藩領
   田 五拾八町七反八畝五厘
      高六百拾八石八斗八升九合四勺三才
   畑 三拾五町三畝
      高弐百壱石三斗七升八合弐勺九才
    (大鯉新田分)
   田 五町壱畝六歩
      高三拾五石八升四合
   畑 壱町三反八畝拾壱歩
      高四石四斗弐升六合
   合計
   田 六拾三町七反九畝六歩五厘
   畑 三拾六町四反壱畝拾壱歩
   高 八百五拾九石七斗七升七合七勺二才
  代官領
   田 五町九反弐畝弐拾五歩五厘
      高六拾四石三升四合五勺七才
   畑 三町八反拾七歩
      高弐拾壱石八斗七升七合七勺壱才
 
 稲葉氏による統治
 新領主稲葉氏は、美濃国(岐阜県)より出て豊臣家に仕えていたが、その本家筋は正成の代に徳川家臣となり、佐渡守に任ぜられている。三代将軍家光の乳母となった春日局はその妻である。長子正勝(老中職)が家を継ぎ、常陸国(茨城県)真岡城主、相模国(神奈川県)小田原城主、越後国(新潟県)高田城主、下総国佐倉城主をそれぞれ歴任し、五代正知のときに山城国(京都府)淀城主十万二千石となった家柄である。
 小田原城主であった正勝の子正則の三男正員(かず)が、天和三年(一六八三)に常陸国新治郡と下野国(栃木県)芳賀郡内の領地から、三千石を分け与えられて分家独立し、それから三代後正明のときの安永六年(一七七七)に安房国長狭郡内で加増を受け、さらに天明元年(一七八一)安房・長狭・平・長柄の郡内で加恩があって一万石の大名となった。館山に居城を構えたのは、寛政三年(一七九一)四代正武のときである。

稲葉氏略系図

 松平氏移封の後この地を領した正巳は、文政三年(一八二〇)に家を継いだが、学問もあり外国の事情にも通じていた。牛肉なども早くから食べたりしたので「唐人稲葉」の渾名があったという。
 兵部少輔から講武所奉行となって若年寄に進み、外国事務勝手掛、海陸軍備取扱、神戸海軍操練所設立担当などを経て元治元年(一八六四)辞任。家督を養子の正善に譲った。号幾余翁。
 しかし、翌慶応元年には再び若年寄に任ぜられ、さらに同二年には老中格・兵部大輔・海軍総裁として軍制改革に努め、勝海舟とともに幕軍の再建に尽力したが、時の大勢に抗することかなわず大政奉還となるのやむなきに至ったため、明治元年に隠居して改めて江隠と号した。
 正巳が隠居を願い出たり、江隠と号するようになったことは領民たちにも布達されたようで、同年の『北中村・役日記』には次のように書きとどめられている。
 
     廻状
  大殿様、御用之儀被成御座候之間、
  西丸江御出仕之処、小笠原壱岐守様より御達ニ付、
  為御名代殿様(正善)御出仕之処、御内願之通御役御免被成候間、
  壱岐守様より被仰渡候。
  此段可相心得候事
       二月二日
 
  大殿様御儀御薙髪、御名江隠様と御改被成度、
  美濃守様江御伺被成候処、
  御   ヲ以御伺之通被仰出候事。
  大殿様折々御登城被成候様被仰出候間、御快方次第御登城被成候。此段可相心得候事
       二月三日
 
 正巳の家督を承けて館山藩最後の藩主となった正善は、武蔵岩槻藩主大岡忠恕(ゆき)の二男であるが、文久元年(一八六一)に稲葉家の養子となり、備後守に任ぜられた。そのときの通達が、同じく次のように残されている。
 
  此度大岡兵庫頭様御二男
  恒之丞様御儀、御養子御願之通
  被為蒙仰候。
  依之稲葉恒(ツネ)之丞様と被為様候間、
  若殿様と可奉称候。
  右ニ付同字同訓相用申間敷候之事
       正月廿七日
 
 維新に際しては藩論が二分したが結局朝廷に恭順し、明治二年版籍を奉還して館山藩知事、同四年廃藩置県に伴って同県知事となったが、同年十一月に館山県は廃された。子爵となり明治三十五年三月十九日に五十四歳で没した。
 以上、当地方ではあまり知られていない稲葉氏についての一端を、参考までに述べた。
 稲葉氏による治政と村民のくらし
 では、稲葉氏が新領民に対してどのような治政を行い、また、どんなことがあったのだろうか、史料によって記してみるが、まず重要なことは年貢である。安政三年(一八五六)の皆済目録(役人から村あてに出す年貢受領証)を見ると、次のようになっている。
 
     辰皆済目録
          下総国香取郡北中村
  高八百七拾六石壱斗七升四合七勺弐才
   一、米三百六拾九石五斗五升四合壱勺
                  本途
   一、米拾石五斗八合七勺    口米
   一、永弐拾弐貫六百五拾五文五分
                  夫人永之内正人勤ニ付免除之分
   一、永八百六文四分      口永
   一、米壱石八斗四升三合六勺
                  口米不掛 見取
   一、米壱斗壱升五合      郷倉敷地冥加
   一、大豆 四石也       大豆納
   一、永 弐百五拾文      野銭
   一、永 弐百五拾文      山冥加
   一、永 弐百五拾文      納莚代
   一、米 弐石弐斗七升八合壱勺 夫米
   一、永 弐貫百九拾文四分   夫永
 
     米 三百八拾四石三斗四升九合五勺
   合  [此斗立四百六石三斗壱升弐合三勺 大豆 四石也]
     永 弐拾六貫四百弐文三分
     此払
   米弐石三升壱合六勺  名主給米渡
   米壱斗四升三合
              上中下田三段荒地年貢年々引
   米三斗七升      御林守給米渡
   米二石也       大豆代米渡
   米二斗六升      大豆運賃米渡
   米拾壱石八斗四升
              潰家九軒半潰拾四軒江御救米被下之分
   米百六拾六石五斗
              当辰違作ニ付御用捨引之分
   米三拾七石也
              右同断来巳ノ秋迠拝借相願候分
   米百七拾四石八斗五合四勺  廻米
   米拾壱石三斗六升弐合三勺  運賃米渡
           但百俵ニ付六分五厘
   納合
    米百七拾四石八斗五合四勺
     此俵四百七拾弐俵壱斗六升五合四勺
      外 米四百五拾俵也
          当辰違作御用捨引之分
        米百俵也
          右同断ニ付 来巳秋迠拝借之分
      大豆 拾俵也
      永弐拾六貫四百弐文三分
       内 永拾六貫五百六文七分
              前々本途之分
         永八貫五百弐拾六文六分
              前々夫永納来之分
      安政三年十二月
 
 総高八七六石余に対する本途(正税)は三六九石余で四二%となり、おおむね房総各地の例に見られるように四公六民の税率となっている。そして納米一俵の容量は、三斗五升に口米(本租に対する付加税)として二升を加え、三斗七升入りとしたようである。これは領主や地方によって相違があったが、関東では三斗七升入りとして二升を加えるところが多かったことに比べると、農民の負担が軽く済んだわけである。
 また、この年だけの特異なことであろうが、潰家・半潰家に対する救米と、凶作に対する減免米、同じく借用米などが多く見られる。八月二十五日夜に襲った暴風は強烈なものであったらしく、北中村が米の輸送を頼んだ船も難船し、そのことが、文書によって次のように報告されている。
 
   乍恐以書附奉申上候
 御領分下総国香取郡北中村役人惣代組頭太郎右衛門奉申上候。去ル廿五日之夜、大風雨ニ而御米十六俵難船仕候趣、急左ニ奉申上候
                                 内田主殿頭様御領分
                                   下総国香取郡小見川村
                                     問屋
                                      寿賀屋太蔵
                                       船頭 安五郎
 右難船仕候場所
      何様御領分御知行所ニ哉
       下総国何郡ニ哉 大 村ト
             申処ニ御座候
    (中略)
                                 御領分北中村
      辰八月晦日                         役人惣代
         郡方                          組頭 太郎右衛門
          御役所
 
 そして、潰・半潰百姓に対する救済は次のようであった。
 
 御領分下総国香取郡北中村役人惣代組頭太郎右衛門奉申上候。六月(ママ)廿五日之夜大風雨ニ而居家破損之もの共 以書面御訴奉申上候処、以御慈悲皆潰七人之もの江は御米弐俵ツヽ、半潰十四人之もの江は御米壱俵ツヽ不奉存寄為御救頂戴被仰付、冥加至極難有仕合ニ奉存、依之御請証文差上申処、如件
    辰九月四日
 
 また、免除された米・来年の出来秋までの借用米については、
 
 (前略)此上格別之以御仁恵、村方御救御米四百五十俵引方、外米百俵来巳之出来秋迠、御拝借被仰付被下置候様乍恐奉願上候処、然ル上は御伺之上御沙汰可被成下旨被仰渡、難有承知奉畏候。依之御位 印形奉差上腕如件
   安政三辰九月十九日
 
 このようになっている。そしてこの年は、米として納めるのは江戸へ送る分の廻米一七四石八斗五合四勺、俵にして四七二俵余だけとなり、正租に対する割合は四七%と、ほぼ半分のみであった。いうまでもないが、このようなことはあくまでも凶年に対する特別措置である。
 しかし農民は、打ち続く凶作のため年貢納めに苦しみ、当然ながら未納となることもしばしばあったが、これに対する領主方の督促もまた厳しいものであった。その一例を示すと、
 
 其村方、去申(年)御年貢今以有之、如何之事候。皆済期日も乍弁、其村而巳年々残米有之、御差支は勿論外村ニ響にも相成、不束之至ニ候。
 畢竟、村役人共取立方等閑之儀ニ候。依之来ル晦日限り急度皆済可有之候。若未納之者有之候ハヽ夫々取調、来月十五日迠ニ村役人之内壱人可願出候。
 右様日限之儀此度格別之猶余致置候ニ付、別而聊ニ而も遅滞有之候ハヽ、厳重可被仰付候間、未進有之候者共江不洩様可申渡候。勿論村役人ニも此上等閑致置候ハヽ、是又同様可被仰付候間、可相心得候。此段申達者也。
    酉(一八六一)五月九日
     郡方役所                          北中村
                                      名主
                                      組頭
 
 このような厳達に対して農民たちは、なお猶予を願うのであるが、それは次の文に見られるように、懸命なものであった。
 
 私村方、去申御年貢残米今以多分有之候ニ付、去月晦日迠ニ皆済可仕候。若未進之者有之候ハヽ取調、当月十五日迠ニ可訴出旨兼而御書付頂戴仕候得共、近年違作打続、其上諸式高直(値)之折柄、小前一同必至と難渋仕、日々之取続ニ茂当惑仕居候間、何共恐多く御座候得共、格別之以御慈悲当月廿九日迠御猶余被成下置候様奉願上候処、被仰聞候ニ付、未進之もの共若別書取調方等閑置候ニおゐてハ、当人同様村役人迠も厳重可被仰付旨、兼而御書付頂戴乍罷在如何相心得候哉、有様之御願奉申上候段不埒之至、此上御猶余は難相成、依之此度、私義御留置被成候間、村方江早々可申遣旨段々御利解之趣、逸々奉恐入、御願申上兼候得共、当月廿九日迠ニハ急度皆済可仕、殊ニ此節柄村方茂甚繁多ニ御座候間、何卒格別之以御仁恵願之通り御聞済被成下、私義一先帰村被仰付候様、再三奉願上候ニ付、然上ハ此度出格之以御憐愍、願之通り当月廿九日迠御猶余被成下置候間、日限迠ニ急度皆済可仕旨、若相背候ハヽ其節は御法之通り可被仰付旨被仰渡、難有仕合承知奉畏候。依之御請印形奉差上候処、如件
   文久元辛酉(一八六一)六月十六日
                                 御領分下総国香取郡
                                     北中村
                                      役人惣代
     郡方御役所                            名主 庄左衛門
 
 村人と領主の間にあって、村役人の立場は辛く、そして、とった態度も立派であった。
 ときは移り、文久三年(一八六三)十二月、失火のため住宅六軒、馬小屋などを含めて二一棟が焼失するという大火災があった。幸いに一人が軽い火傷ですみ、類焼された人たちも火元を恨むということもなくおさまったのであるが、このとき村役人が役所へ頼んで被災者の援助を求めた文書がある。当時の状況を知ることもできるので、次に載せる。
 
 御領分下総国香取郡北中村名主組頭百姓代一同奉申上候。去亥(文久三年)十二月中御届奉申上候焼失人共之内、  衛門家内之者、 人之母子供並ニ馬など相掛リ候ニ付不残丸焼。金左衛門・源平・太左衛門同様丸焼、清右衛門・清平親類組合位牌・証文箱已持出候。残り焼失。
 右之者年貢皆済後ニは候得共、籾種・豆種並米穀など不残焼失致し、甚難渋仕候ニ付、恐多候得共格別之以御仁恵、御米五拾表也右六軒之者共江、三ケ年賦夫喰御拝借被仰付被成下置候ハヽ、一同相助り農業出精差支無御座候。難有仕合ニ奉存候。
 何卒以御慈悲右願之通、御聞済被成下置候様奉希上候。以上
     子(一八六四)正月日                      右村
                                     百姓代 太平
                                     組頭  市右衛門
                                     名主  嘉平
     郡方御役所                            〃  庄左衛門
右焼失人共御米拾五俵夫喰御拝借、当子より寅迠三ケ年賦納、御聞済ニ相成申候
     子正月廿一日                           願人 庄左衛門
 
 米五〇俵の借用を望んだが、結局は一五俵となったわけである。
 ここで、当時の米価・貨幣についてふれてみよう。張紙値段(はりがみねだん)と称した公定相場は、基準とされた三五石(一〇〇俵)当たりが四五両前後であるから、米一石が一両一分となり、一俵(四斗入として)では二分という値段になる。なおこれを現在の米価に基づいて換算すると一両が約四万円、一分(四分の一両)は一万円となり、一朱(四分の一分)は二、五〇〇円と計算される。
 銭一文とは最下位の通用銭であるが、江戸中期には一両が銭四貫(四千文)であったものが、同末期になると六貫から七貫近くまで変動している。ここでは一両=六貫匁(六千文)=四万円として考えてみる。そこで四万円を六千で除すると、その商は六・六六となる。すなわち銭一文は現価六円六六銭ということである。
 このようなことを念頭におきながら、次に当時の職人手間賃について考えてみよう。慶応二年(一八六六)の文書のうち、『諸職人賃銀御改書上帳』からわかりやすく書き改めたのが、次の文である。
 
 先に、文政・天保・嘉永のときも仰せ渡しのあった諸職人手間賃や、綿打替・農業日雇賃など、それぞれ定めもあるのにかゝわらず、近年諸物価が高値になったとはいえ、仲間同志が大勢集まって勝手に引き上げていることについて、此の度寄場役人・大小惣代が相談して賃銀を定め、お伺いを立てたところお聞き済みになった。それは、次のとおりである。
     [大工 畳屋 木挽 桶屋] 金壱分ニ付 四人
     左官   金壱分ニ付 三人半
     綿打賃  百目ニ付 七拾弐文
     百姓日雇 平日 男弐百文 女百五十文
        秋・田植 男三百文 女弐百文
 
 これが、翌年十一月の文書によると、次のようになっている。
 
一、金壱分ニ付    大工  三人半
一、〃        木挽  同断
一、〃        家根屋 同断
一、〃        土方  同断
一、〃        桶工  同断
一、〃        石工  三人
一、〃        左官  同断
一、         経師  同断
一、綿打 百目ニ付      百文
一、髪結 一人前       五十
  但し月留年留之儀ハ右振合ニ而相定可申事
一、百姓日雇      男四百文 女弐百四十文
 右之通相守可申候。万一心得違ヲ以高賃銀請取候者有之歟、亦は賃代引下候迚、不出精之者も有之候ハヽ、何様之御申立被成候とも、一言之申訳仕間敷候。依之 村役人加印御請一札、如件
 
 これによって、諸職人の賃金がどのようなものであったか、現在のそれと比較するのも興味のあるところといえよう。
 しかし、当時諸物価の高騰を抑えるのに苦慮した幕府は、先の文にも見られるように度々その引下げを命じ、天保改革の結果、例えばソバ切り一五文、銭湯六文、床屋一六文、女髪結十二文などの値段となったが、相続く凶作に加えて政状不安のこともあり、庶民は相変わらぬ高物価に苦しんだようである。
 次に人口の推移についてであるが、記録に残された最古のものとしては、天保十二年(一八四一)四月に調べられた『下総国香取郡五人組御改帳 北中村』がある。それには、各戸毎の持高・全員の名前・年齢・菩提寺名から持馬の毛色頭数などが記されており、最終頁には次のように書かれている。
 
一、惣人数四百四拾五人
     内男弐百弐拾壱人
      女弐百拾四人
             馬弐拾九疋
一、家数合 百四拾四軒
   外ニ 寺八軒
      寺家壱軒
   一、六所別当 仙静院
   一、浄妙寺  寺家浄性坊
   一、佛光寺
   一、常顕寺
   一、妙福寺
   一、本福寺
   一、妙浄寺
   一、妙観寺
 右五人組御改之義、村中壱人茂不残入念相改申候処、従前々被仰出候之通り、御公儀様御法度之義者不及申上、其外之義共相背候歟、亦者不作法非義之者御座候ハヽ、早速可申上候。
 若隠し置後日相聞候ハヽ、其者之義者不及申上、名主組頭並五人組迠も何様之曲事ニ茂可被仰付候。
 且又、宗門之義は別帳ニ差上可申候。為後日五人組相究、銘々印形差上申候処、仍而如件
 
となっているが、四四五人で一四四軒ということは、一軒平均三人ほどである。当時の常識から考えてずいぶんと少ない平均人口である。この数は、次に古い史料である七年後の弘化五年(一八四八)の御改帳によると、平均は三・二人、総数四七四人、家数一四六軒とわずかながら増えている。
 それから一四年後、嘉永三年の領主交替から十二年目の文久二年(一八六二)三月の『宗門人別御改帳』によると、北中村の村人は村外を含めて一二寺を菩提寺とし、七五軒、三四二人が記載されているのみである。この御改帳には当然記されているべきであるところの谷津の村民名がなく、作成基準に疑問があるとはいえ、事実として戸数の上でかなりの減少が見られる。
 ここに、夜逃げをした百姓についての記録がある。親子五人が何処かへ立ち去り、関係者は探したが見当たらず、今後どうなるかわからないので人別帳から抹消してほしいという内容である。用紙が虫喰いのため解読し難かったが、次にその文を記してみる。
 
   差上申一札之事
 百姓七左衛門儀、去亥年(一八六三)十一月九日夜、親子五人ニ而家財不残取片付、大切之御年貢諸役銭など不相納、何方江立去り候哉、不相分ニ付組合親類一同ニ而相尋候得共、行方不知、無拠村役場江御届ケ申上候処、尋方被仰付、承知奉畏候。
 又  種々尽一切手懸り無御座候趣申上候。就而は両三年他 ニ致し可置旨   候得共、行先におゐて変難も無覚束故、人別相除度奉存候間、何卒願之通り御聞済之程、偏ニ奉願上候。以上
                                 右七左衛門親類
   文久四年子二月 九日                       兄   左衛門
                                   〃親類  右衛門
                                   〃組合  左衛門
                                   〃 〃  左衛門
     村御役人衆中様
 
 この七左衛門(仮名とした)はこの年二十九歳。二十五歳の妻と三歳・一歳の二人の子供、それに七十一歳の老母とを抱え、浄妙寺を菩提寺としていた。その所得はわずかに六斗六升八合である。もちろんこの穫れ高で生活できるわけはなく、百姓日雇などで手間賃稼ぎなどをしたであろうが、見つかれば当然重罪に処せられることを知りつつも、なお年貢・諸役銭をそのままに放置して夜逃げをしなければならなかった理由は、いったい何であったのだろうか。
 「人別送り状」もなく、原籍地の人別帳からも除かれた七左衛門は、もはや普通の人間として扱われることはない。身分的には極めて悲惨な終局が待っているのみである。
 そして、その後七左衛門一家の消息は不明のままである。しかし後世の私たちは、戸数減少の裏面にこのような事実のあったことを忘れてはならない。
 以上述べてきたことは、稲葉氏治政下にあった北中村における一部分のことがらである。このようなことを含めて歴史は移り、間もなく明治を迎えていわゆる「御代替り」となるのであるが、それについての通達文書には、
 
   御触之写
 今度御代替ニ付、諸国巡見之面々、御先格之通可被差遣候処、当今諸家之疲弊をも被為厭候折柄、御趣意有之。御代替ニ付而は巡見者不被差遣候。
 尤御目付御使番之内、不時ニ見廻り候之儀も可有之候間、兼而其旨相心得、諸事文久二戌年相達候通相心得候之様可被致候。右之趣万石以上並 替寄合之面々迠可被達候。
     九月(慶応三年)
右之通、従公辺被仰出候間、村方共得其意、配下之者共にも不洩様可申渡。
此廻状承知之趣、村下江令受印、早々順達、留村より可相返もの也。
   稲葉備後守
     郡方役所                               北中村
                                        山崎村
 
 このように書かれている。
 そして、北中村の村人たちは新政府へと受け継がれていくのである。御一新となった後、新しい体制づくりのため人心の高揚をはかり、政府はいろいろな施策を講じたが、その中に孝子節婦の表彰や農業勤惰者の調査があった。北中村でも早速該当者を調査したところ、宮に助右衛門(利助)という若者がいたので、推薦の手続きをとったが、その際の文書が残されている。
 
   乍恐以書附奉申上候
御支配所下総国香取郡北中村役人共一同奉申上候。今般御布告被為在候農業勤惰之者、至急取調可書出旨被御申渡候ニ付ては、早速村方へ申渡処、一統相談之上取調候。
 百姓助右衛門当年二十二歳、此成義、従来困窮罷在候折、十二ケ年前同郡南中村百姓紋四郎方へ年季奉公ニ差出候処、主人助方大切ニ農業相励候。
 尚亦主人方休日之時ニ不掛至勤 、母親有之  養育行届安心為致候様ニ心掛ケ、事ニ違作続之折柄  主人より貰受    母ニ孝 養育いたし候次第殊ニ衆ニ越候ニ付、此段奉申上候。以上
   明治三年午六月
                                    右村百姓
                                     勤孝行 助右衛門
                                     伍長  忠兵衛
                                     什長  藤右衛門
                                     組頭  市右衛門
     宮谷県御役所様                         兼庄屋 理左衛門
 
まことに賞揚すべきことである。
 次いで翌四年十一月に、『下総国第九区内第廿六画戸籍 香取郡北中村』が作成された。これは新戸籍編制の基礎となったものであるが、その集計が末尾に記されている。
 
  一、戸数  百弐拾二軒
  一、人員  五百四拾八人
     内 男弐百八拾壱人 女弐百六拾七人
       内
  一、寄留人 五人
        但男四人 女壱人
  一、僧侶  九人
  一、社   壱社
        末社壱社
  一、寺   八ケ寺
 
 このようになっているが、この中には、六十一歳の母か津と二人で農作業に精を出す助右衛門があり、一方、当然のことながら七左衛門一家の名は記されていない。