北中・宮字常用五五三番地で集落の東方突端にあり、一段と高台になっている。三方を水田に囲まれ眺望に恵まれた場所で、両側の台地に面した部分は薬研堀状の道路によって隔絶されており、北側の山林内は斜面が二段の崖地となっていて、一見して要害の地であると知れる。
壺岡城址
ここは、武蔵守日野宰相宗頼を祖とする七代後裔の直季は多摩郡平山館に居て平山を姓としたが、それよりさらに五代を経た季信が、相模・武蔵とともに下総中村を所領して居城としたところである。季信は傑僧日祐に師事して日擁と称し、北場浄妙寺を建てたことで知られる。
その後和泉守季助のとき北条氏に従って小田原に戦ったが、長男光義は山中城に討死し、北条氏の滅亡とともに二男季邦らを伴って中村に帰り、後、弓矢の道を捨てたという(「平山五軒党」および「浄妙寺」の項参照)。
城主季助たちが戦いに加わって不在の間、壺岡の留守を守っていたのが大木仁兵衛玄蕃といい、廃城の後僧侶となって草庵を建て、戦役に散った人々の菩薩を弔ったといわれている。その草庵が後の常用山常顕寺である。この常顕寺についての記録はほとんど見当たらず、五人組改帳などにその名が見られる程度であるが、今はその廃寺跡の一隅に歴代住職の供養碑が次のように見られる。
開山 正乗院日顕
二世 妙用院日宣
三世 妙音院日宝
四世 院日迢
五世 蓮行院日栄
六世 進 院日請
八世 本竜院日等大徳
享保二年(一七一七)四月十五日
九世 通本院日道大徳
寛延二年(一七四九)
そして一基の板碑があり、「三千部 元文五(一七四〇) 奉唱 目 常用山 南無妙法蓮華経 十三日講中 常顕寺男女 当時九世通本院」と、その歴史の一部を示している。
現在は、城跡のほとんどは大木家が所有し、歴代住職の位牌も同家に祀られている。城主末裔の平山家と大木家とは前記のような関係があることから、平山氏五軒の当主たちは新年の早朝に大木家へ集まって先祖の霊を礼拝し、然る後に年始の諸行事をとり行うのを例としていた。このことは、近年までなされていたということである。
最後に、『香取郡誌』の旧蹟誌の項に書かれていることをここに転載して参考に供したい。
同村大字北中字宮に一砦址あり。今畠地と為る。呼で壺岡城と曰ふ。平山季助の属城たりしが、小田原役後季助其二子と共に軍に従ひ、家臣之を留守し、役後遂に廃址と為る
日充聖人墓所
字白山一八六番の四にあり、南中から県道多古・山田線を北進して神行集落の入口に至ると、その県道をへだてた位置に相対している。谷津地内である。
日充については、他の項にもふれてあるので重複は避けたいが、武蔵国宰相で下総に所領を有し、宮の壺岡城主であった平山氏族の系譜によると、小田原落城とともに壺岡へ帰り、後に家康の招聘も断わって帰農した季邦の弟に八郎右衛門尉義高がおり、その二子が浄妙寺九世の日舜と弟の日充である。このことを証して同家旧過去帳に「日充聖人 慶安三庚寅(一六五〇)六月十九日 六十七歳化 正東山八世 法性山十二世 六聖一 岩城左遷一宇建立」と書かれている。
日充は遠寿院と称し、前記のように浄妙寺の十二世を経て、檀林となった日本寺の八世能化となったが、寛永七年(一六三〇)の身池対論に不受不施側の代表として、池上本門寺の長遠院日樹(もと中村檀林六世)とともに、身延山久遠寺の日暹らに対論した結果、法理ではなく権現様(家康)の先規によって不受不施は非なるものと裁定され、中村檀林能化から除歴となり、奥州岩城へ流罪の処分を受けたのである。
そして、奥州へ流された日充は、同藩主内藤帯刀忠興のもとにお預けの身となった。
これより先、加賀国(石川県)野々市で一万石を領していた土方河内守雄久(かつひさ)は、慶長九年(一六〇四)に家康から多古およびその付近の地で五千石の加増を受けて支配に及んでいたが、その子勝重が元和八年(一六二二)に再び五千石を加増されたとき、多古の五千石を幕府に返上して、新しい領地一万石を岩城においてその所領とした。そして藩庁を野々市から窪田(いわき市)に移して窪田藩二万石(野々市一万石、窪田一万石)を興した。この雄久は内藤忠興の妹婿である。
「忠興は、窪田に寺屋敷(伊賀屋敷とも)を与えて居住させた」(『日蓮宗学全書』・第二十一巻)とあるから、忠興は預かった日充の身を、多古の地に関係が深くまた義弟にも当たるところから土方雄重に託したものではなかろうか。そして日充は、他の流刑僧とは異なる相応の庇護を受けたように思われる。
前述のように、慶安三年六月十九日、流罪地において六十七歳の生涯を終わり、その遺体を運んで埋葬したのがこの地であるという。
墓地に入ると、その墓碑前に
聖跡
[遠寿院 前六聖人]日充聖人之墓
中村谷津鈴木家産中村檀能化
配所奥州岩城平窪田
慶安三年寅六月十九日 六十七歳寂
日蓮宗不受不施派
立正護法会建之
と墨書された高札状の板がある。墓碑の塔石は高さ約二メートルほどで、木造建物の中に安置されている。正面に「妙法蓮華経 日充聖人」、右側面と左側面にはそれぞれ「慶安三庚寅六月十九日」、「中村北南眞俗起旃(せん)」と刻まれている。
この碑は、当時禁制宗門であった不受不施の人たちは、それを証するような墓を建てることができなかったため、明治になってその禁が解かれた後に、信奉者たちの手によって建立されたものであろう。
現在この墓地は同集落の鈴木家が管理しているが、前記墨書文のように同家を生家とする説もあり、寛永十四年丁丑(一六三七)九月二十九日に日充が直筆で書いた曼荼羅と衣類の一部、遺体を運んで来た棺の木片で作られた位牌があるとのことである。福島県いわき市平字鶴ケ井の鈴木重郎氏にも遺物が残されているという。
なお、日充の墓石がもう一基あることを付記するが、その場所は日本寺大門脇の通称平山五軒党墓地といわれているところで、高さは一メートルほどあり、西に面して建てられている。
正面に「南無妙法蓮華経 日充(花押)」と刻字されているのみで、檀林能化で全国にその名を知られた傑僧のものとしては質素である。しかし気品の溢れた墓石である。
これは、日充が生前に自分で建てたものであるといわれている。あるいは流罪地でその生涯を終わることを予測してのことであるかもしれない。