『中村神社明細帳』によると、前記事項のほかに社殿は間口五間・奥行二間半、拝殿も間口五間・奥行二間半、境内坪数八六四坪とあり、由緒については「不詳」と記されている。
昭和になってからではあるが故波木栄之助宮司がまとめ記された『村社六所大神御記』があり、ここにその一部を転載して参考にしたい。
由緒
仁賢・武烈の昔、物部の小事大連・節刀を錫(ママ)はり東征して功有り、邑を下総に賜はられ因て改め匝瑳連と称し、其の裔中村の郷に居り、世々陸奥鎮守将軍に補せらる。
人皇第五十二代嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)紀に陸奥鎮守副将軍物部の匝瑳連足継なるものあり。又人皇第五十四代仁明天皇承和二年(八三五)紀に下総の人鎮守将軍物部匝瑳連熊猪、姓宿禰を賜はられ改め左京を貫す。其子匝瑳連末守之を継で鎮守将軍たり。
当六所大神は、実に仁明天皇の御宇承和中(八三四~八四七)鎮守将軍物部匝瑳連中村の郷の郷社として創祀せし所の祠なりしなり。
因に又総社伝記に曰く、「人皇十二代景行天皇の朝(七四~一二七)に当り、国府毎に必ず六大神を祀る。故に常武二毛諸国府の址に皆其の祠あり」と。蓋し中村の郷は匝瑳の中央に位し、匝瑳連の居所にして郡衙の所在地たりしを以て、国府に倣ふて之れを祀れるものなりといふ。
然はあれど北総北史に、元亀三年(一五七二)十二月兵火に罹り文書悉く焼失し、其の正伝を得るに由なしとすれども、我が中村北中谷(津)出身の碩学者村岡良弼翁は、其の著書「日本地理志料」に依り、明治三十七年是れを明に世に公にせられたるは功しき極みなり。今其の本文を掲ぐるに
「中村郷有二六所神社一為二十二村鎮守一。祠官已ニ廃浄妙寺掌二其祀事一。有二祭田十二石一見二寺社分限帳一。総社伝記云、毎国府祀二六大神一、在二景行天皇ノ時一今諸国府址皆有二其祠一是也。因謂、祠東ニ有二古墳二一、曰二船塚一曰二白幡森一。鋤犁之余露二出石〓一。昔物部ノ小事ノ大連、東征有レ功賜二邑下総一因改称二匝瑳連一。其裔居レ此世補二陸奥鎮守将軍一事具二正史一。当時倣二国府一祀レ之者耶」(『日本地理志料』第五巻、原文)。
翁の詠句に
自レ祭二六神一歳月多 達レ祠喬木帯二雲蘿一
郡衙蹤絶千秋後 無三復人知二古匝瑳一
とあり。さらに
二十八日。謁二六所神社一。祠宇宏敞長林蓊欝、令二人畏不一レ已。旧志載、毎国府祀二六大神一、在二景行天皇之朝一。常武二毛房総諸国府址、皆有二其祠一。按二倭名抄一、吾中村郷、隷二匝瑳郡一。常時位二郡之中央一、而郡衙在焉。或倣二国府一祀レ之。陸軍大将幟仁親王、書二六所大神四大字一、賜レ之。今所レ掲匾額、即是。
といふ。
尚ほ古老の口碑に依れば
「此地喬樹蓊欝にして鴻の鳥常に巣籠り棲ひ、或時何処よりか珍石を銜(くわ)ひ来り、此れの所に落せり」
と。以て瑞地となし六大神を祠ると。
現今社宝として其の珍石を存せり。然して「鴻之巣」の地名、今尚ほ神域に隣りて存せり。
当神社は実に宏壮なる祠宇にして、長林欝蒼昼尚ほ暗く、神威自ら参拝者をして襟を正さしむるものあり。
社殿は、正殿拝殿等最も荘厳古奥を極む。正殿高く掲ぐる「六所大神」の扁額(縦九十センチ・横四十五センチ)は、畏くも有栖川幟仁親王殿下の御染筆にして、明治十一年十一月殿下には皇典講究所総裁の任にあらせられたる当時、村岡良弼翁は参事院議官補兼図書寮御用掛の職にありしを以て、当神社の由緒を詳かにし特に請ふて御下賜を忝ふしたるものなり。以て神社の至宝となす。
昭和十二年九月勅令第九十六号に依る神饌幣帛料を供進することを得べき神社として指定せられ、村社六所大神となる。然るに昭和二十年十二月十五日その停止となり社格制も廃止せられ、神社本庁管轄の宗教法人令に依る神社となる。
波木宮司はこのように書き記している。
多古松平氏の国替えに当たり、南中・南並木・南借当の三村はそのまま残り、北中村は稲葉兵部少輔と幕府直轄の代官とに分治されることになったことは前記のとおりであるが、従来、一領主の支配下にあってともに鎮守様として崇めて来た六所大神の運営について、別当寺が中心となって、その安泰をはかるため南北両郷の盟書を取り交わすことになった。
御領ちがいになっても氏子同士はこれまでと同じく、平和と繁栄を願うことに変わりはない。このことを両郷氏子一同が神前に誓い合おうというわけである。その契約証が次の一文である。
為取替申和融契約之事
一、南北両郷之儀者、御同領且ツ同御租ニ而、旧来平和ニ相過候。今般就御領替ニ、北中村御領違ニ相成、併同氏子之筋者是迠之通ニ候得共、若及後年ニ、双方隔心ケ間敷儀出来候事も難斗、然時ハ村方衰微ハ不及申ニ、自然鎮守之不祥不可過、之ニ甚可患事ニ候。
依之当時別当窺神霊候上、鎮守之増威村内繁栄、両郷氏子和融之盟書一通、神前江永々相納申置度趣具ニ両郷へ申出しニ付、即両郷打寄遂評儀候所、寔後代和融繁栄之御神慮難有実事ニ有之候故、両氏子一同於神前ニ慥ニ契約仕処也。
然上者、及後年ニ万々一も依御領違之廉等、隔心之争論於有之者、其時々之村役人ハ勿論小前之者中、急度可蒙鎮守之御咎事無格者也。
尚右誓相立候上者 鎮守之祭事修覆等初村方取定事附合、万端何事も是迠ニ少も不相替、貞実ニ相暮可申候。
為其神前契約一証文為取替申取、仍而如件
嘉永四年辛亥(一八五一)六月
南中村 小前惣代
五郎右衛門
治郎兵衛
縫右衛門
五右衛門
直右衛門
庄右衛門
伊惣兵衛
権左衛門
岩右衛門
儀右衛門
組頭佐右衛門
〃 所左衛門
〃 芳右衛門
名主長右衛門
〃 三左衛門
南並木村 小前惣代
庄左衛門
組頭喜右衛門
〃 七郎右衛門
名主勘右衛門
南借当村 小前惣代
縫左衛門
組頭五右衛門
〃 重右衛門
名主吉兵衛
前書之通無相違御座候 依之奥印仕候
別当
北中村 仙静院
役人衆中
この別当仙静院は、神仏混淆の慣習によって神社境内にあり、浄妙寺の末寺であった。そのことを証するのは次の文書である。
手形之事
一、当仙静院 之義者従去年為
貴寺之末流上 別而自今以後
親切ニ随従仕万諸可受御指図事
一、若非義之謀計抔加等して本寺
違背之様成事於在しは 何時成
退院可蒙仰候仍而一札如件
元禄十四辛巳年(一七〇一)二月廿四日
六所
仙静院 印
浄妙寺様
神仏分離令は明治元年四月に布達されたが、同寺については、次のように記録されている。
明治元年元別当仙静院寺籍帳
下総国香取郡北中村
同国同郡同村浄妙寺末
法華日蓮宗 仙静院
一、五畝拾歩
無縁境内除地
六処尊天院内勧請
但シ破界六天王也
右之通相違無御座候 以上
明治元年辰十月日
下総国香取郡北中村
名主 市右衛門
〃 理左衛門
御県知事
御役所
ここで、同社境内における一人の僧侶の悲劇を、記録に基づいて述べてみよう。
嘉永六年(一八五三)一月二十三日夕刻、駒寄せの外の南北両中村境いに当たるところで、門碑の下になって倒れている僧のいることを旅人が見つけ、早速村役人たちが調べてみたところ、風呂敷包みを背負ったまま、左の足・顔のあたりを押し潰されてすでに死んでいた。
その右わきに筆箱・印箱などがあったので改めたところ、この僧は、常州(茨城県)鹿島郡柏熊村の華養院弟子で「明本房」といい、書道修業をしている様子である。年齢は三十歳ほど。天保十二年(一八四一)正月発行の往来一札(通行手形)を所持している。
そこで、「北中村は御領ちがいでもあり当惑しており、南北両郷惣社にかかわることであるので、なにとぞ御役所よりの御見分を願い上げます」との書面を、南中村・北中村両名主組頭が連印して、多古役所に差し出した。
次いで翌二十四日に検使が来て、村役人も立合って見分したのであるが、その見分書によると、年齢三十歳くらいの僧侶。上着は木綿ねずみ色、古い綿入れの下着、同じく袷木綿の浅黄色繻絆を着用、ねずみ色丸帯をしめ、木綿浅黄古股引に白木綿古脚絆、白の古足袋にわらじばきである。縞木綿の風呂敷を背負い、左の眉毛上から頬にかけてが門碑の下敷きとなり、足を台座にはさまれ、左の耳から出血して死んでいる。
そしてこの明本房の所持する往来一札には「天保十二年(一八四一)正月、神社仏閣参拝に出たもので、病気などのときはその土地の村法(村のしきたり)によって知らせて下さるように」とあったので、早速柏熊村花養院方へ飛脚を出して知らせた。ところが、同寺からは、「そのような者を送り出したことはない」との旨を返事して来たのである。
村内の者はもちろん、近隣でも見知った顔でなく、何処の者かわからないし、この僧侶についての風聞も聞いていないので、とり急ぎこの旨も村役人一同連印の書面で役所へ差し出した。二十九日の日付である。
当方としては、神社境内で圧死した僧侶について、どのように処置するのが最善の方法であるかを相談し、落度のないようにはからったであろうが、相手方からの返事は、
一札之事
一、其御村地所におゐて、当正月廿三日夜、拙寺よりの往来書持参のもの、行倒死去仕候趣、此度御尋ニ預り候得共、右様之なるもの当寺より差出し候儀一切無之。為念一札差出し申処、依而如件
嘉永六丑正月廿八日
稲葉辰之輔知行所
常州鹿島郡
花養院 印
勝春
松平豊後守様御領分
下総国香取郡南中村
稲葉兵部少輔様御領分
同国同郡 北中村
右両村
御役人衆中様
すなわち、「私どもでは、そのような者は存じません」という一札である。この返書を見た村役人たちの驚きと当惑が目のあたりに浮かんでくるようである。
この年は、米使ペリーが浦賀に上陸、ロシアの使ブーチャンが長崎に来航したことなどから、攘夷派と開国派の争いが続き、翌年の和親条約締結に関して物情騒然とした年であった。
このようなときに、天保十二年の「往来一札」を持って当年までの八年間。この明本房なる者は何処をどのように旅し、まことはいかなる人物なのであろうか。今にしては知るすべもないが、それにしても悲運の最後といわねばならない。