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由緒・縁起

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 『中村寺院明細帳』によると、
 
   千葉県管下下総国香取郡中村北中字北場
                                法華宗
                                 日蓮宗 浄妙寺
一、本尊   釈迦牟尼仏
一、由緒   天平宝字年中(七五七~七六四)唐ノ鑑真創立ニシテ、其先寺号ヲ東耀寺ト称シ、律宗後チ密徒トナリ聖武天皇ノ御勅願寺ト云。貞和二年(一三四六)有故日蓮宗ニ改宗、寺号ヲ浄妙寺ト改ム。天正十八年旧幕府徳川家ヨリ、地中不入朱印地拾弐石八斗賜ル(明治四年上地トナル)。右往古ノ由緒ヲ以テ寛保ノ度、宝鑑寺ノ宮様ヨリ法性山ノ御染筆額面賜ル。
一、堂宇間数 間口九間 奥行六間三尺
一、庫裡間数 間口五間三尺 奥行拾間
一、境内坪数 千百拾八坪
一、檀徒人員 弐百三拾五人
大正八年七月三十一日仝所妙浄寺合併セラル
 
 このように記されている。また、『日蓮宗寺院大観』を見るとその沿革について、
 
 天平宝字(七五七~七六四)年間の創立。鑑真和尚の開創。開基浄行院日祐。親師法縁。貞和年間、了整の代に中山法華経寺三世日祐により律宗より改宗、東耀寺を改称。応永二十年(一四一三)大風により倒壊し法性台より現在地へ移転。当地における最古の寺である。九世日舜は平賀本土寺へ。十九世玄心院日明は京都本法寺三十世へ。二十三世本是院日貞は同前寺三十三世へ。(大観には応永二十年九月二十一日の創立とある)。
 
と、ほぼ同様の記述がなされている。
 当寺に、書かれた年代は不明であるが、その由緒について記された古文書があり、それを現代文になおしながら、その来し方を振り返ってみると、
 
 聖武天皇の請いによって天平勝宝六年(七五四)に唐僧鑑真和尚が来朝、天皇は深く帰依して奈良東大寺を創建したことは、既に知られたところである。天平宝字年中(七五七~七六四)和尚は諸国を歴訪したときこの地に二寺を建てた。中村・東耀寺と土橋・東漸寺である。東大寺と合わせて三壇三東といわれた。
 永仁年中(一二九三~九八)に当寺主法印了整は東漸寺主宥整と共に、これまでの律宗から真言宗へと改め、さらに貞和二年(一三四六)、当時中山法華経寺三世であった日祐が安久山村(八日市場市飯高)不動松堂において説法活動をしていたとき、了整は法論を挑んだが、日祐の非凡さに敬服し、帰伏して日蓮宗に改宗した。そして師弟の義を結び名を日整と改め、寺号を浄妙寺としたのである。
 
 当時は、現在地北方の高台「法性台」に建てられていたが、大風のため倒壊したので六世日行のとき応永二十年(一四一三)九月に現在の場所へ移転して、本堂を再建し、次の七世日肇によって塔中浄性院が建てられた。
 その後多胡城主となった牛尾能登守胤仲は、自らの祈願所として天正五年(一五七七)に制札・黒印を寄せているが、それは前記日祐が当地方一円の支配者千田胤貞の子であり、胤仲もまたその子孫であることなどによるものであろう。胤仲に関する数少ない貴重な資料ともいうべきその墨書には
 
   当御住改而其寺中後代
   之儀被御定度々御旨意趣承
     元来不被存疎儀者就中
   於自今以後者不可有疎意  
   尚御寺中竹木供領等至迠前々
   不相替毛頭御 在有之間敷事
     悪党等之儀者随子細而糺明
   可申候万一法外之事儀出来ニ付而者
   速ニ可蒙仰者也 仍如件
     天正五年丁丑八月朔日
                    胤仲(花押)
      北
       浄妙寺
            

牛尾胤仲書状(天正五年)

 このように記されている。
 天正十八年(一五九〇)秀吉は北条氏を小田原に滅ぼし、同寺の大檀越であった平山一族も武門を捨てることになるが、関東一円を所管するようになった徳川家康は、同年十一月に十二石の朱印地を寄進している。その朱印状は次のとおりである。
 
     寄進  浄妙寺
        下総国匝瑳郡
        中村郷之内
     拾弐石事
    右令寄附証
    殊寺中可為不
    入者也仍如件
     天正十九年辛卯十一月日(御朱印)
 
 十一世大法院日憲のときである。そしてこの御朱印地がどのような内容のものであったかを、享保六年(一七二一)の文書によってみると、
 
                                下総国香取郡北中村之内
  御朱印地                               浄妙寺(印形)
     高拾弐石
       内壱町五畝弐拾歩  田方
       壱反七歩      畑方
      反別合壱町壱反五畝弐拾七歩
    右之通ニ而御座候以上
     享保六辛丑閏七月日
       境内惣坪数 三万四千九百九拾弐坪
       町積り 拾壱町半余り
                                 十七世
                                   玄心院日明(花押)
 
 もう一通の同年文書には
 
                                 下総国匝瑳郡北中村
  御朱印地                               浄妙寺(印形)
    一、上田合壱反八畝歩
    一、中田合五反八畝弐拾二歩
    一、下田合弐反八畝弐拾八歩
    一、下畠合壱反七歩
     惣反別合壱町壱反五畝弐拾七歩
     分米合拾弐石八升也
   右御朱印之地内ニ永荒無御座候
    一、惣境内 長六町 横四町半
          此内ニ松杉等林御座候
    一、境内出家三人 百姓拾弐間(ママ)
             惣人数七拾壱人
             内男三拾五人
              女三拾六人
   右之境内御除地ニ而御座候已上
     享保六丑年閏七月日
 
 このようになっているが、境内は長さが六町(約六五〇メートル)、横が四町半(約五〇〇メートル)とあり、その宏大さをうかがい知ることができる。そして家康以後の歴代将軍も、先例に倣って朱印地を与えていたことが次の文書によってわかる。
 
                               松平大蔵少輔殿領分之内
                                下総国匝瑳郡中村郷法華宗
                                           浄妙寺(印)
                                同国葛飾郡中山法華経寺末
                                         谷中 妙法寺触下
   高拾弐石
  一、権現様(家康)  御朱印天正十九年辛卯十一月日
            寺中可為不入者也
  一、台徳院様(秀忠) 御朱印元和三年三月廿七日
  一、大猷院様(家光) 御朱印寛永十三年十一月九日
  一、厳有院様(家綱) 御朱印寛文五年七月十一日
  一、常憲院様(綱吉) 御朱印貞享二年六月十一日
     右五通之外 御朱印頂戴不仕候 以上
      享保二丁酉年(一七一七)三月七日
                                    江戸宿坊谷中妙法寺中詮量院
 
 当寺の由緒を知るうえでもう一通の文書を示したい。永代聖跡(寺格で、本山に次いで上より第二位の寺)免許のことを申請したときに添えたものである。前書と重複する点もあるが、比較的わかりやすいので、原文に句読点を付して、読者の参考に供する。
 
   奉願永代聖跡之事
 下総国香取郡北中村法性山浄妙寺由緒
一、当寺往古真言也。東耀寺了整住職之節御本山三祖日祐尊聖師、当国安久山村動松之堂におゐて御説法之砌、右了整と御対論有之、依帰伏、師弟之御約束仕、名を日整並寺茂法性山浄妙寺与(と)御改、則日整江御附属ニ而永ク法華之霊地と成、夫より已来三百有余年被成候。
一、往昔当寺は多胡城主牛尾能登守胤仲殿之御祈願所。其意趣は、御本山日祐聖師御儀は御先祖胤貞殿之御養子、曽谷殿之御子。又当寺一世日整ハ日祐聖師御弟子。此由緒を以、天正五年丁丑八月朔日胤仲殿より殺生禁断・山林竹木不伐等、御黒印  当寺有之候。
一、当寺十世大法院日憲住職之節、天正十九年辛卯十一月、従東照大権現様拾弐石之寺領、殊寺中可不入者也之御朱印被下置、夫より当御代至迠御代々御朱印頂戴仕候。
一、右由緒有之寺と奉存、十六世日竜代、惣旦中打寄抽丹誠客殿建立。勿論諸尊其外荘厳等不残成就仕、十七世日明入寺之節中絶仕居申候一代聖跡御願被中上之、御本山日禅聖師御代願相叶、日明相続キ日清御免之御本尊頂戴之仕候。然ニ今般御本山御評議之上、中村檀林首座観朗後職被仰付有奉存候。
 兼而寺旦之大願ニ右之由緒有之候寺故、何卒時節を以永代聖跡仕度、数年来奉願罷有候。願之通被聞召分ケ、此度御免許被遊被下候者難有奉存候。以上
   享保十七年(一七三二)
 
 このように申請したのであるが、同時に免許料ともいうべき金七拾両弐分を納めたとの受取証が保存されている。
 
一、永代聖号免許官金
  惣〆七拾両弐歩
    但シ内六両弐歩者丑之年より午之年迠六ケ年之間毎年壱両宛 尤午之年皆済之節壱両弐歩上納可レ有レ之究ニて証文取置候
  然而六拾四両
  外ニ五両 是ハ貫首本尊補任料金也
  都合六拾九両
  右慥ニ請取申候 為 (後)証仍而如件
     享保十七壬子年(一七三二)三月七日                    中山 院中 印
       浄妙寺
         日厳聖人
        同惣旦方中
 
 この日厳は、中村檀林九十二世・松ケ崎(京都)檀林六十六世・京北常徳寺十四世・和歌山感応寺十五世などを歴任し、宝暦八年(一七五八)十二月一日に六十三歳で没した当寺二十一世の主であるが、過去帳には「字観朗号定雲(ママ)院 後称日堅 当山永聖祖 正東山化主 紀州感応寺歴祖」と記されている。
 このように、縁起についても、古文書が散逸して調査不可能の寺社が多いなかで、当寺はその保管がよくなされているといえよう。