今般浄妙寺江願之通御額被成下 則証書相添候 且亦御自分 彼寺江由緒有之ニ付 寄附之段承届候 尚又火災等之節 御額可被心付候 依之 候
恐々
宝鏡寺御家司
杉原左近
初冬上旬 勝(花押)
黒崎大炊
義(花押)
下総国中村
平山藤十郎殿
このように書かれている。平山藤十郎とは当時の大旦那であろうが、年代から考えてみると、光秀の三男で分家して東・藤重郎祖となった守典か、または宗家藤右衛門と同様に藤重郎を称した光秀の嫡子秀暁、およびその子季忠のいずれかである。
そしてこの額は、京都宝鏡寺の本覚院宮法親王が古希(七十歳)のときに書かれたものであることを証する次の文書がある。
法性山之御額
前宝鏡寺
本覚院宮古稀之御歳
御筆被染之明状仍而如件
宝鏡寺宮御家司
杉原左近
寛保三癸亥年(一七四三)四月 勝(花押)
黒崎大炊
義(花押)
浄妙寺 御房
宝鏡寺文書
宝鏡寺は、光厳天皇(一三三二~三三)の皇女・華林宮恵厳禅尼公が、伊勢二見浦で魚網によって引き上げられた観世音菩薩を本尊として創建した臨済宗の門跡寺院(皇族・貴族などが住持する特定の寺院)で、別名「百々(とど)御所」または「人形寺」ともいわれ、尼五山の一寺であった景愛寺の法灯を受け継いでいる。
本覚院宮は、一一二代後西天皇(一六五六~六三)の皇女橿(かし)ノ宮のことで、天和二年(一六八二)四月宝鏡寺に入り、同年十月得度。宝永四年(一七〇七)十月、三十六歳のときに景愛寺門跡となり紫の衣を勅賜され、延享二年(一七四五)五月十二日、七十四歳で入寂された。宝鏡寺記録には「第二十二代 前景愛本覚院宮宮厳尼大禅師」とある。
なお、銚子妙福寺にある「経主宝殿」の額字も同じく本覚院宮の染筆であるが、同寺は、もと多古藩領山崎村(八日市場市)にあって真言宗般若寺と称したが、日祐の布教によって日蓮宗となり、寺号も法福寺と改めた。正徳五年(一七一五)に鏑木平山氏の当主忠兵衛満篤が大檀越となって銚子荒野に妙福寺を引寺して創立のとき、当時の多古藩主松平勝以に請うて、聖徳太子直作といわれる守護神妙見尊を遷座奉祀した。
この平山満篤は、次の系図に示すように、壺岡城主平山氏から分かれた同族である。
唐竹妙光寺にある古文書『鏑木村平山忠兵衛一党代々』の末尾に
鏑木村忠兵衛一族始祖図書本当寺之檀越也 其五代孫久甫翁以右檀越 買田於中邨而寄附当寺以為先祖冥福 故其歴代一党精霊記之為之回向 且使其縁由知後代ノ矣 南無妙見大菩薩
奉寄附 飯土井本田
南中村 平山三郎兵衛(満春)
奉寄附 飯土井寺下田
鏑木村 平山久甫
右善願之志者為先祖仏果菩薩報恩謝徳也
維時享保十三戊申(一七二八) 月 日
とあるように、始祖図書以来檀越として多大の貢献をしていることがわかる。
そして、「鏑木平山氏家系譜」には次のように重要な記述がなされている。
五代満篤。忠兵衛、図書・久甫ノ称アリ。家ヲ弟満清ニ譲リ、後西院上皇ニ仕へ奉リ功績多シ。銚子市荒野ニ海上山妙福寺ヲ創立、田二町八反八畝十六歩ヲ寄進ス。延享元年(一七四四)七月二十日没。七十一歳。
すなわち、図書が前記本覚院宮の父君である後西院上皇に仕えていたことから、銚子妙福寺由緒にあるように、「平山図書を通じ朝廷の叡慮殊の外深く……」であった。
このことによって、中村平山氏と密接な関係をもつ浄妙寺に対して、その出自を同一とする鏑木平山氏の当主満篤が、格別の配慮、尽力をしたことのゆえに、扁額下賜が実現したものであるという点については、そこに疑いを容れることはできない。
また、当時の住職であったと思われる十九世日明は、鍋冠りの異名で知られる久遠院日親を開山とする京都本法寺の歴代三十世でもあったが、このことは御親筆頂戴のことに関連してはいないだろうか。
次いで歴代は二十六世日縁となるが、「字光岩号唯事院 正東山玄講主 庫裡建立廊下玄関共」とある。この工事に関係のあるものか「寛政第六甲寅天(一七九四)九月大吉祥日 移転 法性山廿六世唯事院日縁(花押)」と墨書した板札(裏面は判読不能)が保存されている。