その後、仁王門その他の建物も傷んできたようで、その修復事業をするため、「頭陀(ずだ)修行」をしたい旨の次のような願い書が出されている。
乍恐書付を以奉願候
拙寺域ニ王門其外所々及大破、修覆自力ニ不相叶候ニ付、此度為修復当未三月より同十二月迠、於江戸表日々頭陀修行仕度奉願候。尤不律不妙法之勤方決而仕不申候間、何卒右願之通被仰付被下候様、偏ニ奉願候。以上
文政六年未(一八二三)三月
下総北中村
浄妙寺
檀方惣代 藤兵衛
七郎兵衛
五郎兵衛
峯
妙興寺御役僧中
外ニ右之通之文言ニて御本山御院中と 願壱通都合弐通峯へ差出し申候
このように江戸へ出ての募金活動も行われ、三十一世日祝のときに仁王門の補修がなされたのである。歴代譜によると日祝の項に「字枢恩号啓運院 正東山首座二老 此代二王門葺替成 」とある。
続いて三十三世日諦(後に日満)の代には山林を伐採して一六両二分の代価を得て、仁王尊の衣替えや多聞堂修復の費用に充て、また過去帳も新調している。
時代は既に幕末に入っていたが、嘉永となって歴代は日智となり、三十六世を継いだ。同師は多聞天を遷座し、玄関表向の修復なども手がけているが、実践力、見識ともに優れ、特に書においては他の追従を許さないものがあった。
ここにその筆跡を再現することはできないが『古鐃鈸記』の原文を記し、改めて同師の学識に敬意を表したい。
古鐃鈸記
寺ニ有二鐃(にょう)一鈸(はち)一一 傳ヘテ言フ三開基鑑眞和尚ト所二從レ唐齎来ル一也 鑑眞者本邦律宗之祖 丁天平勝寶之世 應シレ請ニ入リレ朝ニ弘メ二教益ヲ一物甚ダ爲ストレ盛ント矣 距ルレ今ヲ千有餘歳 此寺爲リ二和尚開基一 則當時所ノレ有スル教像亦當レ多 然而今無二一存一者惜哉
中古此寺爲リ二眞言宗一 後改メ爲ル二今ノ宗ト一者 中山日祐上人開化之時也 故ニ以テレ師ヲ爲ス二開祖ト一 而後隷二于中山一 其爲ル二眞言一時ノ教像乃至什具今ハ無レ存レ皆 但毘沙門天 王禪尼子 吉祥天三銅像 住持日舜ノ時從二土中一出現 思フニ是眞言宗ノ時ノ物也歟 其餘往々有二破壊之石書梵字一者没二於地中一 予時ニ収拾シ安ンズ二於庭上一 而至於鑑眞和尚之時之物 則チ唯此二箇ノ壊器之外 不レ可二復得一矣
曽テ聞ク一時寺僧視ル三以爲ルヲ二尋常一壊器 用ヒ二之ヲ厨間ニ一以テ代ス二沙(さか)鍋ニ一 後點照什薄(簿)不レ見二此器一皆以テ爲リレ失ヒ矣 有ル二一檀越曽テ認識一者 於二竃間(そうかん)灰煤之中一見之驚而挙収之 然而猶與(と)二諸什具一安二於一篋ニ一而已 予今歳新ニ制シ二一篋ヲ一以蔵スレ之ヲ
庶幾(こいねがわくは)後ニ来視者即識三其爲二寶器一也 夫レ片石隻瓦亦爲二古人遺物一則人愛二-珎(珍)之一 况ンヤ二此ノ器眞和尚自レ唐齎来者一乎 且斯寺開基之祖別無一物之遺付 唯有斯器足與口碑相證 人因テ以テ知ルレ爲ルヲ二眞和尚之開基一乎 因テ爲二之記一
嘉永第五歳次壬子孟秋上浣
法性山三十六世嗣法日智識
印 印
鐃鈸(にょうはち)というのは、両手に一面ずつ持ってそれを打ち合わせて鳴らす鉢状の楽器で、どらの一種である。右の鐃鈸は開基鑑真和尚が唐から来朝のときに持参したものであるとの口伝を記し、土中出現の三尊像は真言宗であったときのものではないかとしている。その所在がわからぬままであったが、それをかつて見たことのある檀徒によって竈(かまど)の灰の中から発見され、以後は他の什物と共に箱に納められて保存されることになったという。
他所に見られるような金属製のものではなく、皿状の瀬戸物の土器であり、一部が欠損している。
日智に続いて澄心院日寿が三十七世となったが、安政元年(一八五四)の御朱印本書改めに続いて、同四年(一八五七)に御朱印を頂戴している。十三代将軍家定のときである。
三十八世を継いだ勇猛院日耀は安政五年(一八五八)九月に入寺、多聞天を堂内に遷座している。翌六年(一八五九)十月御朱印改めがあり次いで同七年(一八六〇)九月に御朱印を受けているが、将軍は十四代家茂であった。そして歴代譜によると、「基後天下一般御一新ニ付 明治元辰年十一月上総国張南宿知県事有之節 返上御朱印ス 基御旧制ヲ以下馬札門前前ニ立ル事免許」と御朱印返上と共に下馬札免許のことが記されており、この下馬制札は現存している。