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寺域の石塔・小宮

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 続いて、同寺境内に建立されている石塔などを見てみよう。
 まず域内に入ろうとするとき、道路わきに建っている題目塔に気づくであろう。これは現住職の第四十七世本堯院日仁師の筆になるもので、正面に
 
「南無妙法蓮華経 [法性山浄妙寺]」とあり、両側面には
 「宗祖第七百遠忌報恩奉行塔」
 「一天四海皆歸妙法 昭和五十五年十二月吉日 法性山第四十七世本堯院日仁 総代 加賀原正男 総代大木藤之助  同  土屋秋治郎 同 佐久間 政 同  佐藤 貞一  同 三枝 武司」
 
とそれぞれ刻まれている。
 続いて境内に入り仁王門に向かうと、その両側に二基の題目塔がある。その右側には、「南無妙法蓮華経 権門改宗霊場 法性山浄妙寺第二十五嗣法 妙解院日透(花押) 明和第七歳次庚寅(一七七〇)仲春良日」とあり、裏面には
 
「為高祖大菩薩五百遠忌御報恩謝徳 従明和寅年十二年之間預所修善業 勧奨唱題一萬部自唱三千一百萬遍 読誦妙経一千部十種供養法要執行 天明元年辛丑十月中浣三日 表唱満玄號一千部成就為大恩報謝 以此功徳先祖累代之衆霊佛道増進 池田氏苗裔前備中州剌吏長興主君 本覚院殿光徳道雲大居士報恩謝徳
                                当山嗣法二十五世日透(花押)
                                功徳在南中村町平山宇右衛門敬白」
 
と、高祖日蓮の五百遠忌にちなんで天明元年(一七八一)十月に供養法要が営まれたことを示している。
 この支援者である平山宇右衛門とは、前記系図にある秀暁(藤右衛門・藤重郎)の三男宣輝のことである。分家して宇右衛門家の祖となったが、平山家の系譜を書き、安永六年(一七七七)には同一族の過去帳に筆をとっている。寛政八年(一七九六)に八十一歳で没した。
 右の文中に「池田氏苗裔云々」とあるが、これは父宣輝に先んじて天明七年(一七八七)に江戸で病没した養子能致が、若年のときに仕えた池田備中守長興に対して、報恩の意を表わしたものである。
 宣輝の兄季忠(藤右衛門・藤重郎)は本家当主を継ぎ、江戸昌平校に学んで郷士、多古松平氏の被官となり、後に伊能忠敬の測量事業に多大の援助をしている。
 妹のタミは佐原伊能三良右衛門長由に嫁ぎ、娘みつに養子として忠敬を迎えた。すなわち忠敬の義母に当たるわけである。季忠の孫季恭が後の郡蔵で、忠敬と共に全国を測量したことは広く世に知られている。
 左側のものには、「南無妙法蓮華経 宗祖六百遠忌当三十九世日行 不変院法真日如居士(文蔵・重綱) 随縁院妙理日応大姉(重綱妻わさ) 明治十一年戊寅三月本願主 平山五郎兵衛檀方中」。このように記されている。なおこの塔石は硫黄質を含んでおり、「子供のころ、これに火を付けて燃やして遊んだことがある」とは、八十五歳老の言葉である。
 手洗石には、「奉納 江戸堺町二文字屋妙順 四目屋妙信 明和七庚寅(一七七〇)正月吉祥日 二十五世妙解院日透」とある。
 仁王門を入った右側の奥には歴代住職の墓石が並び、大檀越平山氏の墓地がある。刻字の判読できるもので古いものには「寛永十一甲戌(一六三四)四月二十三日平山伊兵衛 父光伝位與三十三年也」とあるが、父季邦(法名法蓮院殿光伝日潤)の三十三回忌に当たって嫡子伊兵衛(季家)が建立したものであろう。
 板碑は八基ほどが点在しているが、いずれも中世・南北朝から室町時代の末期のもので、下総式題目板碑といわれるものである。
 
 板碑一 「南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼佛 永和二[丙辰](一三七六) 月日」
 板碑二
  「大持国天王       大廣目天王
                 経仁
               日乗  
     上行无辺行〓(菩薩)  日   
               日応  
     南無多宝如来
              公私先  
   南無妙法蓮華経(蓮座)      
     南無釈迦如来        
                 
              日 弥二
     浄行安立行〓(菩薩)
              妙蓮経 
              妙 妙通
     応永十二年(一四〇五)十月十日
   大 門天王      大増長天王」
 
 この板碑は『下総国旧事考』(清宮秀堅著)巻十一(金石・芸文・風土記残編)にとりあげられているものである。
 
 板碑三
  「         右為悲母妙 比丘尼
     南無多宝如来 十三年忌也仍四息
   南無妙法蓮華経  七世法界平等利益
     南無尺迦牟尼佛   父蓮妙而已
            永享十一年(一四三九)十一月日
                     孝子敬白」
 
 このほかに、延徳二年(一四九〇)、明応七年(一四九八)、天文元年(一五三二)、天正元年(一五七三)のものと、摩耗のため判読不能の一基がある。
 当寺が台風によって倒壊し、応永二十年(一四一三)に現在地に再建されたことは既述のとおりであるが、法性台にある寺跡には応永三十年(一四二三)の年号を刻んだ曼荼羅碑が建てられていて、往時を偲ぶよすがとしている。なおこの石塔も『下総国旧事考』六・巻十一に記載されているものである。
 本堂内陣は荘厳そのもので、本尊十界勧請曼荼羅尊像が奉祀されており、右側の別棟には土中出現といわれる毘沙門天(多聞天)の他、各尊像が安置されている。
 郷里の先碩村岡良弼が自著『北総詩史』の中で当寺に寄せた一文があり、ここに再掲して浄妙寺の項を終りたい。
 
   法性台
法性山浄妙寺、貞和中改密宗法華道場。寺北三町有地名法性台。是其墟也。
墟有巨碑曼陀羅。款日、応永十三年十月。蓋擬日蓮百二十五年追福者。
寺記曰、唐僧鑑真創本寺及吉岡慈恩寺、土橋東漸寺。東漸寺鐘識亦同。然、鑑真東征伝、元享釈書不其事。故姑舎之。
  蕭寺南遷秋幾回
  豊碑一片委蒿莱
  依然苔蝕古文字
  標得当年法性台