字大鯉一三八一番地の一にある。大鯉新田と呼ばれた坂並集落におけるただ一つの寺である。集落の西端にあり、栗山川流域の水田を一望に眺められる高台に位置している。松戸市平賀にある日蓮宗の名刹・長谷山本土寺の末寺で、『中村寺院明細帳』には次のように記されている。
千葉県管下々総国香取郡中村北中字大鯉坂並
本土寺末
日蓮宗 本福寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 不詳
一、堂宇間数 間口五間 奥行三間三尺
明治四十一年四月二十二日焼失
一、建物 間口三間 奥行弐間
同前
一、境内坪数 五百廿坪
一、檀徒人員 百五拾人
現在当寺は無住である。一棟の建物は仏教行事のみでなく、集落の集会所としても利用されている。入口にある大小二基の題目塔には、昭和二年と同九年に桐谷嘉右衛門によって建てられた旨が刻まれている。
本堂西側の墓地入口にある一基の石碑は、柏熊・坂並新田開拓の祖といわれる多古藩家老服部与五左衛門の墓碑で、それには「普政院古信日慧霊位 享保六辛丑歳(一七二一)七月十日卒 服部与五左衛門尉普政墓 当村中」と刻まれている。
墓地の奥に歴代住職の墓碑があり、その中の一基に当寺の由緒・村の歴史の一端を記したものがある。それによると、坂並の始まりは貞享三年(一六八六)からである。宝永二年(一七〇五)に何処からか寺を引き移すことになって、翌宝永三年に建物が造られた。六老僧の一人・日朗の開基になり「平賀の本土寺」と呼ばれる長谷山本土寺の末寺として、同寺二十二世の円妙院日詮を当寺に迎えて開基とした。このことを記念して享保八年(一七二三)に碑を建立したというものである。刻文は次のとおりである。
「宝永三丙戌(一七〇六)七月二十一日
再興本願 鈴木七兵衛 林院日堯
元禄五壬申(一六九二)十一月三日
霊一会南無日蓮大〓(菩薩) 長谷山二十二世日詮
南無妙法蓮華経
未敢 日朗 上人一干ケ寺成就中興本是院日進
平賀本土末寺下総坂並新田蓮行山本福寺授与」
左側面に「当村開発 貞享丙刁(寅)(一六八六)九月七日究ル」
右側面に「享保八癸卯十一月十三日建立 宝永二乙酉(一七〇五)九月四日 引寺決る」
坂並新田の開発と共に入植した人たちの菩提寺として建立されたものとみるべきであろう。
なお、昭和五十六年発刊の『日蓮宗寺院大鑑』によると、当寺の沿革として「大観には、文明五(一四七三)年中の創立。開山本土寺九世妙高院日意とある」と書かれていることを付記する。