次に、今は廃寺となった寺院跡を訪ね、ありし日のすがたを見てみよう。まず北中の東端・宮の集落へ入ってみる。
妙浄寺跡
前記の春日神社に隣接するところ(字宮四七七番の一)にあり、まず「元妙浄寺 南無妙法蓮華経 為本山浄妙寺合併記念 檀家建立 大正八年七月三十日」と刻まれた石碑によって、その事実を知ることができる。
妙浄寺について『中村寺院明細帳』は、次のように記している。
千葉県管下々総国香取郡北中村字宮
浄妙寺末
日蓮宗 妙浄寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 不詳
一、堂宇間数 間口八間 奥行四間
一、境内坪数 三百五拾壱坪
一、檀徒人員 三拾五人
由緒については「不詳」としてあるが、その開山について、本寺である浄妙寺の過去帳には「三世少将阿闍梨日円 至徳三年(一三八六)四月九日 号常楽院 当所宮妙浄寺開山也」と記されており、応永二十一年(一四一四)を初めとする次の五基の板碑があることをみても、歴史の古さがうかがえる。
応永二十一年 (一四一四)
永享四年 (一四三二)
永享十二年 (一四四〇)
文安三年 (一四四六)
長禄四年 (一四六〇)
いずれも室町時代初・中期のものである。
また、妙浄寺についての古文書が一通浄妙寺に保存されているが、不受不施の吟味と寺名について参考となるので、次に載せる。
以書附委細ニ申上候
一、御法度之不受不施毎々吟味仕、別而去年中檀中一統吟味を遂、急度相改候所、村内隠レ居所之人並ニ信仰之者無御座候。旦那寺へ取置候箇條書相守候。
且又、石塔・塔婆等別所ニ相立候者、又は名主役人表宗旨証、又人別除之候者等一切無御座候。
曼陀羅之義は前より有来、何之弁別もなく所持仕居候者も御座候故相改、紛敷分ハ拙寺江取上、焼払申候。
檀中一統連印取置候。
右之通りニ相違無御座候。以上
寅十月廿三日 宮
妙成寺(ママ) 印
なお、宮には顕実寺(東松崎旧松崎檀林)の末寺として常用山妙顕寺があったが、同寺については「壺岡城址」の項でふれている。
高野山妙福寺跡
字久保三〇二〇番地にある。久保集落の中心地で道路の十字に交わる所に集会所があり、それと道路をはさんだ左右の場所である。現在は墓地となっている。
当寺は、日本寺の末寺であったが、南中字坊谷(または中城とも)にあった東福寺が、火事に遭ったのち現在地の西谷に移り、再興するに当たって当時無住であった妙福寺の建物を使用し、同時に寺籍も合併されたことによって廃寺となったようである。
『中村寺院明細帳』には次のように記されているが、但書きに留意されたい。
千葉県管下々総国香取郡中村北中字久保
日本寺末
日蓮宗 妙福寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 不詳
一、堂宇間数 間口五間三尺 奥行三間三尺
本堂 庫裡
一、境内坪数 八拾弐坪
一、檀徒人員 三拾壱人
但書、明治四十五年六月廿九日同村南中東福寺ヲ合併東福寺ト改称ス
現在では往時を偲ばせるものとしては、題目塔と板碑がそれぞれ一基ずつあるだけである。その題目塔台石に「妙福寺南無妙法蓮華経 享保廿乙卯年(一七三五)三月四日 善了院日相大徳 天保十一子年(一八四〇)十一月良辰 中興現寿院日照 惣檀中造立」とあり、また板碑は「応永三十四年(一四二七)」の文字が読み取れるのみであるが、これは中世・室町時代の年号であることはいうまでもない。
なお、当寺は不受不施内信寺として知られ、元禄十一年(一六九八)十一月十日に三宅島で死亡した大泉院日須という僧は、「下総北中村妙福寺出寺、多古生レ」で、不受不施信仰・布教の科により三宅島へ流罪となり、その地で没している(『房総禁制宗門史』)。
これより以前、元禄元年(一六八八)に日本寺三十三世日演の記した文書の一節に「久保妙福寺 並木城山(しろやま)ヨリ久保へ引也。法理故本末之義中絶ス。元禄四年復根本成、末寺手形等有」とあって、法理上異論があった妙福寺は、日本寺との縁が中絶し、元禄四年に再び旧状に復したことが明記されている。
妙栄山佛光寺跡
字久保三〇一三番の地で、前記妙福寺跡とは東西に走る道路を距てて相対している。一段と高台で現在は墓地となっている。『中村寺院明細帳』には
千葉県管下下総国香取郡中村北中字久保
妙光寺末
日蓮宗 佛光寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 不詳
一、堂宇間数 間口五間 奥行四間
一、境内坪数 百八拾坪
一、檀徒人員 三拾八人
とあり、由緒については不詳としているが、『日蓮宗寺院大鑑』には「大観には貞治年中(一三六二~六七)の創立。開山中山法華経寺三世浄行院日祐とある」と書かれており、日祐が千葉胤貞の庇護を受け、当地方を説法して多くの寺院を改宗させたころを、その創めとするようである。それは、同寺跡にある卵塔によっても証される。すなわち「開祖 南無日祐聖人 応安七年丙寅(一三七四)五月十九日」と刻まれているからである。