久保の道祖神 井戸山から栗山川を渡ってきたとき、集落の入口に当たる場所で、字西の塙三一六四番地になる。木立の下に二基の石宮があり、周辺に小宮が一〇個ほど奉納されている。その一基に「文政六癸未(一八二三)九月吉日 奉納 押田太右衛門」とある。
旅人の守護神としてばかりでなく、魚の目・いぼ・足の諸病に霊験ありと老人は語る。嘉兵衛・勘右衛門両家では氏神として尊崇し、十月の神事には必ず甘酒を供えているという。
北場の道祖神(一) 栗山川から北場の集落に向かう入口にある。所在地は向根二八五九番地である。道路両側にある二本の榎木がその位置を示しているが、小鳥居の奥に石宮が埋もれており、神名・刻字も不明確である。
北場の道祖神(二) 字久根の内一六三の一がその所在地であるが、県道多古・山田線に面した伊東家東側にある小祠で、山倉方面から谷津を経て北場を通り、南中へと続く旧道の北場への入口であったという。石宮には「道祖神 寛延二巳(一七四九)九月吉日 施主兵助」とある。
なお、北場集落内の後記山王・二弁天・妙見・三十番神(前記)の五社は、各々三~六軒の氏子があり、氏神として祭祀を行っている。
神行の道祖神 神行集落内を西へ入って開墾畑の方へ進んだ場所で、字後原二一四二番地にある。北場からの道路が交差する道路の中央、榧木の根元に石宮があるが、破損のため刻字も判然としない。最近新しく「道祖神」として一基祭祀された。
坂並の道祖神 神行から畑の中の旧道を通って坂並へ入ると、旧道入口に当たる場所、椎の古木の下に五基ほどの石宮がある。判読できるのは次の四基である。「願主桐谷石太郎」「寛政三亥(一七九一)十二月吉日 五十嵐平左衛門」「文久元年酉(一八六一)三月」「嘉永五子(一八五二)十一月吉日 渡辺文右衛門」、所在地は字妙見前一三七五番である。
谷津の道祖神(一) 坂並から谷津への入口、字徳明一一七九番の一にある。この小祠は、押田氏一族がその氏神として祀っているという。古木の下に石宮が一基あるが、刻字は判読できない。
谷津の道祖神(二) 前記住吉社と同じ山林内であるが、所在地は字塚原一二七番の一となっている。この祠は、同地の木内氏一族が氏神として祭祀を行っているという。北面する道路は、北場から谷津地内を経て坂並方面へと通ずる旧主要街道であったといわれる。
石宮が三基、小祠が五基ほどあるが、刻字の読み取れるのは、次の三基である。石塔の一基には「奉参詣三千ケ寺 享保元丙申(一七一六)十月二十八日 下総国北中村 自休院日理」とあり、他の二基には、「天保五年(一八三四)十二月吉日 谷津木内藤兵衛」「天保十四年癸卯年(一八四三)木内藤兵衛」とある。
なお木内氏の遠祖に、山伏修験にまつわる人がいたということである。
馬頭観音 右の道祖神と同じ小字で、一三三番の一にある。谷津地域内ではあるが、県道多古・山田線をはさんだ西側は北場になり、旧街道の北場入口にある伊東家わきの道祖神(北場の道祖神(二))とは、五~六〇メートルほどの距離でしかない。
雑草の生い繁る墓地の一隅にある石宮には「馬頭観世音 明治三十六年二月八日 中村北中桐屋」とある。
宮の道祖神(一) 宮入口から北へ直進し、谷津の方へ曲がる道と集落の裏側へ曲がる道との三差路地点、字水内四六〇番のところにある。一基の小石宮に「元文六辛酉(一七四一)三月吉日 小川平兵衛」と刻まれている。
宮の道祖神(二) 妙見社から約一〇〇メートルほど東へ行った十字路わきにある。その所在は字馬土内四三三番である。二基の石宮が祀られ、それぞれ「道祖神 享保六辛丑天(一七二一)九月十九日 施主大木氏」「宝暦十一辛巳天(一七六一)九月九日」のように刻字されている。
弁財天社 久保の道祖神(字西の塙)から東方へ向かって坂を上ると、集落を見下ろす高台にある。字久保三〇五五番の一に所在し、小祠ながら、集落の鎮守として崇拝されている。
木造の本殿は亜鉛葺きの上屋に覆われ、境内社として、火災盗難除けの神・古峯山の小宮がある。本尊は五穀豊穣を司る弁財天であるが、字亀塚にあった浅間社と、字神行にあった山王社を合祀してあるという。
八幡社 字坪の内二九七二番にある。弁財天社の東方に続いた高台で、本殿わきの老杉が目標となっている。
上屋付きの木造本殿で、応神天皇を武神として祀ってあるという。
もう一つの八幡社は字神行二〇七二番の一にあり、集落の北側になる。上屋付き木造の小宮で、祭神はかつて源氏の信仰深かった八幡大菩薩であり、神行に住む人達の産土神でもある。
内陣には十枚ほどの古鏡が納められ、その鰐口には「正徳元辛卯年(一七一一)北中村諫行(神行)新田惣拾六軒氏子敬白 奉掛氏神正八幡大〓(菩薩)御宝前」とあり、棟札には「貞享二丑(一六八五)四月吉日 大工番匠佐藤清左衛門吉重 願主中村久兵衛 伊藤四郎左衛門 山本角兵衛 鈴木甚兵衛 鈴木与四右衛門 寒行(神行)新田之初天和二戌年(一六八二)極月吉日」とあって、北場の枝村といわれる神行の草創を記している。
山王社 字北場二一三〇番地である。もと個人宅地内で、本殿は上屋付き木造の小宮である。祭神は大山咋神で護国鎮護の神として知られる。鰐口には「享保二丁酉年(一七一七)二月申吉日 奉掛御宝前」とある。
弁天社 浄妙寺境内の南側高台で、字北場二二〇八番地にある。木造の小宮で「表(おもて)弁天」と呼んでいる。
いま一つの弁天社は、北場集会所東側の字北場二一三〇番地にある。石造の小宮で「新堀(にいほり)弁天」といわれる。いずれも崖上とか小高い丘にあって、池の中などに祀られることの多い弁天社とは趣を異にしている。因縁については知る人がない。
妙見社 右弁天社の東方で、神行へ通ずる道路わきに巨木に守られて建っている。字北場二一二〇番地である。本殿は木造小宮で上屋が付いている。境内に石造りの古峯山が祀られてあり、本尊は天御中主命で千葉氏の守護神である。