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村のすがた

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 旧中村域の東端に位置し、水田の中を南流する借当川の支流をはさんで八日市場市大堀に対している。集落は、東から入り込んだ狭い水田に南面し、北側の台地上を旧銚子街道が東西に通じている。この丘陵の南斜面に一〇戸あまり軒を連ねているのが南和田である。
 
  宅地  一町五反
  田   五町五反四畝
  畑   三町一反六畝
  山林  三町五反八畝
  原野  二三歩
  その他 二反三畝
   計  一四町四畝
  人口  六七人 内男二九人 女三八人
  世帯数  一三戸
 
 これが、昭和五十九年現在の規模である。
 以前の村はどのようなものであったかを、古文書に依ってみると、最も古いものに、享保二年(一七一七)三月に名主太右衛門、役人山本久助・小川藤左衛門などによって記された『下総国香取郡中村之内和田水帳』がある。これによると、当時の主耕地である水田の地域を、次のように記している。
 
  一、日影之芝五百九拾五間
  一、横まほ手にて拾壱間
  一、中通りにて弐拾六間
  一、横しゆくいとのはしにて弐拾間
  一、日影ノへた上ノそ より田へりまで 中村内和田地
  上田〆壱町六反七畝拾五歩
    分米弐拾五石壱斗弐升五合
  中田〆壱町八反三畝弐拾歩
    分米弐拾弐石四升
  下田〆三町六反五畝弐拾壱歩
    分米弐拾五石五斗九升九合
  田〆七町壱反六畝弐拾六歩
    分米七拾弐石七斗六升四合
  上畑〆壱反五畝八歩
    分米壱石三斗七升四合
  中畑〆壱反弐畝弐歩
    分米七斗弐升四合
  下畑〆壱町四反三畝六歩
    分米四石弐斗九升六合
  畑〆壱町六反九畝五歩
    分米六石三斗九升四合三勺
  屋鋪
    壱畝弐拾壱歩  藤左衛門
    壱畝歩     孫兵衛
    壱畝四歩    左兵衛
    壱畝弐拾歩   兵次郎
    壱畝弐拾歩   五郎右衛門
    弐畝拾弐歩   太右衛門
    〆 九畝拾七歩
      分米九斗五升六合七勺
 
 このように記されているが、これを現在と比較してみると田が一町六反余の減、畑が二町余の増となっている。
 さらに、土地の肥沃度についてみると、田の総耕作面積七町一反六畝余に対して、下田の占める割合は五〇%強となっている。また、畑についてみれば、実に八五%近くが下畑である。すなわち、田畑の土壌がいかに劣悪なものであるかを証左している。そしてこの収穫高は、明治元年調査の『旧高旧領取調帳』に見られるように、田畑屋敷の総計が八〇石一斗一升五合と、全くの変化なしに続いて来たのである。
 今からおよそ二七〇年近くもの前に、稼働人員も多くはなかったであろう六戸の農家が、人力のみで営々と続けて来た努力は、想像に余りがある。その勤勉さは現在もなお村の気風として残っている。老婦人の言葉に、「私たちの若いころ、他村に見られるような一日・十五日の農休日などはなく、ただ働くだけで、婦人の遊山講でもある子安講もなく、涙に曇る日々もありました」と聞いたが、この事実を裏付けることが見出された。
 福現寺内陣に安置されている子安観世音厨子の木札によると、同寺住職の日仙が木像を見つけ、塵を払って確かめてみると、それは子安観世音菩薩であった。そして、世話人谷津・平山総右衛門、久保・佐久間勘右衛門、西谷・田村友八、神行・加賀原弥右衛門他村中によってこの厨子が作られた。時に明治二十七年六月のことである。
 このことから考えると、現在行われている子安講、つまり出産の無事を願う信仰の集いは、この年から始められたものとも思われる。あるいはずっと以前の、この木像が作られた時代には講が存在し、後になって何らかの事情により中止されていたものが、ここで再興されたのかも知れない。しかしいずれにせよ、子安講まで中止しなければならない理由は何であったのだろうか。