村の起こりを解き明かしてくれる資料は、もうそれを求めることはできない。大正十年刊行の『香取郡誌』によると、慶長中(一五九六~一六一四)の検田帳に「千田庄中村の内和田」とあり、寛文中(一六六一~七二)には松平小左衛門へ分地の際に独立して「南和田」と改称とある。そのころには『水帳』ともいわれる検地帳が保存されていて、村名に「南」の一字を冠した理由も記されていたのかもしれない。
嘉永五年(一八五二)に村役人・名主が交代した際に取り交わされた引継書ともいうべき文書が現存しているが、その中に記されている次の貴重な諸文書は既に散逸し、見出すことのできないことは残念である。
預り申一札之事
一、御水帳 享保三亥改 一冊
一、田畑名寄帳 寛政三亥改 一冊
一、高帳 天保四巳改 一冊
一、田畑名寄帳 嘉永四亥改 一冊
一、高帳 同断 一冊
一、年々高抜帳 一冊
一、日掛金割合返し帳 四冊
一、日掛金請取帳 一冊
一、村々立合取替帳 一冊
一、御鹿狩御用帳写 一冊
一、村絵図 一面
一、村規定書 一通
一、人別宗門帳 一冊
一、御書下し 二通
右之品々 組頭立合ニ而 慥ニ預り置申候 以上
嘉永五年子五月
和田村
名主
和田村 五兵衛 印
三之丞殿
これらの文書が現在も揃っていれば、南和田の歴史は一目瞭然となったことであろう。