江戸時代以前の支配者
支配者としてその名が記された者は幾人かあろうが、年代順に述べてみると、まず「匝瑳の長者」または「太太(だいた)の長者」と呼ばれた中村太郎忠将が公(きみ)ケ辺田(坂並)にいて、「長元の乱」(一〇二八~三一)のとき、父平忠常に味方したため、源頼義に亡ぼされたという(中村誌)。
また、同じ一族である中村小太郎常方(忠将の嫡子とも)が永承のころ(一〇四六~五二)源頼義に属して戦功があり、中城(鴻の巣台)を築いたとの伝承がある。この忠将・常方の両者とも、千葉氏諸系図に記載がなく、あるいは傍系の子であるかもしれない。
さらに治承四年(一一八〇)源頼朝が挙兵、石橋山に敗れて安房に逃れ、再起を期して下総国府に向かう途中、源氏にとって危険分子であった千田庄領家判官代平親政は千葉常胤に捕われ、千田庄は常胤の弟胤幹(千田次郎)、その子胤氏(千田次郎太郎・兵衛尉)がそれぞれ領主となった(東鑑)。
千田庄は、現在の多古町一帯から匝瑳郡北部にわたる広い区域で、中世には「千田郡」の名称もあり、「千田庄中村の内和田」と検田帳にあることは前記のとおりである。当時この荘園は平清盛の孫下総守季衡の采邑であり、その支配をする領家の判官代親政は、平忠盛の聟であったことから、平家との関係は最も深いものであった。
次いで宝徳元年(一四四九)のころ中村但馬守が中城にいたといわれるが、前記中村太郎忠将・同常方との関係は、四〇〇年以上も経っており、文献もないので、明らかにすることはできない。但馬守は、康正元年(一四五五)千葉胤直・胤宣父子が一族間の内訌により多古・島に逃れて自害するという事件のとき、胤直方に味方して戦ったが、遂に原康胤のために亡ぼされたという(千葉実録)。
その後、世は戦国時代となり、牛尾胤仲、山室常隆、正木時忠・同時茂などの諸将がこの地に戦い、それぞれが勝敗の後、農民の疲弊を残して歴史は次の時代へと移り代っていった。
天正十八年(一五九〇)七月北条氏政が小田原に敗れ、早雲以来五代一〇〇年続いた北条氏が滅亡して秀吉の天下となり、その領地は徳川家康が所領するところとなった。宮の「壺岡城」は北条氏に属していた平山季信(日擁入道)の築いたものといわれ、それより十一代後の季邦は父季助と共に小田原にいて北条氏のために戦功をたてているが、小田原の落城とともにこの地に帰り、後に帰農したという。
平山氏は居城が廃され敗軍の将となったとはいえその子孫は代々里正となり、また「平山五軒党」を称して、この地方一帯にかなりの勢力を持っていた(詳しくは「南中・平山五軒党」の項に)。
徳川幕府以降の支配者
八月に江戸城に入った徳川家康はその領地を分けて家臣に授けた。そして保科正光が肥後守に任ぜられて多古領主となり、当地もその支配下に入った。正光は慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の役に出陣して浜松城を守り、戦後恩賞として信濃国高遠城(三万石)主となり移って行った。
次いで土井利勝が領し、後に幕府直轄地のため代官支配が続いたが、寛永十二年(一六三五)十一月に松平勝義が多古領主となり、この時から松平家の支配地になったようである。そして寛文十年(一六七〇)父勝義の領地を継いだ勝易が弟勝光に五百石を分地するまで続く。
南和田村地頭となった松平勝光(織部)は、前記松平勝義の四男として生まれ、万治二年(一六五九)小性組の番士となり、寛文元年(一六六一)御蔵米三百俵を受ける身分に取り立てられ、寛文十年(一六七〇)には分家し、弟勝忠(半十郎)とともにそれぞれ五百石ずつを分地されて独立した。その采地は上総国では境村と朝倉村。下総国内では和田村と水戸村の都合四カ村である。旗本小普請となって享保二年(一七一七)八月三日に七十八歳で没したが、子孫が代々同村の地頭となり、明治に至る最後の当主は小左衛門であった。松平家が当村に課した年貢は、次の文書により明らかである。
文久四子年(一八六四)正月
亥之御年貢皆済目録 和田村
御前高八拾石壱斗壱升五合
此取米七拾三俵壱升四合四勺
内一、御米 壱俵 名主給米
一、御米 三斗 堤永引
村引
〆米壱俵三斗
御廻米
一、御米 三拾俵 佐原津出し
運送米
一、御米 弐俵弐斗八升 佐原津出し
一、御米 九俵壱斗五升九合三勺 御引方米
一、御米 弐拾九俵壱斗五合壱勺 御払米
両ニ六斗替 足付
代金 九両弐分ト五拾八文御上納
惣〆 御米七拾三俵壱升四合四勺
一、鐚六拾壱文 山銭御上納
書面之通り相違無御座候 以上
子正月 和田村
名主
五兵衛 印
御地頭所様
御役所
いずれにせよ、もと北中村に属していたと『中村誌』に記されているとおり、これまで述べて来た内容は北中の項と重複する点が多く、支配者や沿革のほとんどは北中村と同じに考えてもよいように思われる。
現在当集落は宮・谷津とともに北中東部区を形成しているが、歴史的な背景からみても妥当なことといえよう。