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小宮・石造物

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 境内にある奉納物はいずれも功緻性の高いもので、入口右手にある石造題目塔には「和田山福現寺 玄長院日常 玄了院日義 妙了院日体宝暦六年(一七五六)七月日 信解院道有」と刻まれている。
 やや離れて三段礎石の大きな常夜塔があり、「常夜燈 文久二壬戌年(一八六二)四月 和田山福現寺恵伝代 金三百疋本願主借当縫十郎(他多数の名前と金額)」とあり、「明治二十四年基礎再修飾」の字が見られる。
 本堂前には、上屋付きの大型石造手洗いがある。これには、表に「水灑 嘉永六癸丑歳(一八五三)仲夏良辰 和田山福現寺留守居専伝代 世話人谷津仁左衛門 坂並金左衛門 三谷(みや)藤右衛門 同彦左衛門 同重良兵衛 当村三之丞 願主舟越邑喜作 南中邑由蔵」。裏面には近郷村々の名前が五〇人ほどと、それぞれの金額。そして最後に「宮和田若者中 一金二百疋」と刻字されている。
 手洗いの左手にある小型の石燈籠には、「御宝前 嘉永六癸丑年(一八五三)九月吉日恵伝代 施主玉造邑野平佐右衛門 当邑並木三之丞」とある。
 本堂内の正面内陣には、祖師像を中心にして諸尊が安置されているが、左側に一段と荘厳な家型厨子があり、そこには薬師如来が祀られ、左に前記の子安観世音菩薩、右に薬師如来の眷属十二神将がある。
 いうまでもなく薬師如来は、人々の病苦を癒し、心の苦しみを除くなど十二の誓願をたてた如来で、現世利益的効能を標榜するものであるが、当寺の如来は特に眼病に対してその霊験が著しく、近郷近在から多くの信者が集まったといわれる。
 前記の石燈籠・大手洗いなどのほとんどが嘉永年間(一八四八~五三)のもので、内陣前の長押(なげし)に懸る立派な扁額や、それに並ぶ絵馬も、同時代のものから明治にかけてのものが多い。これらのものを見ても、その当時いかに信心者が多数参詣したかが想像できる。
 次の文書は、これらのことを明らかに物語っているものといえよう。
 
   引請一札之事
一、我等組合半次郎後家さき、 巳六十一歳ニ相成候。今般眼病相煩、御当院薬師様心願ニ付、日数三七日之間籠居信心仕度義御座候。何卒願之通り偏ニ御世話被下度奉願上候。然ル上者、籠中当人身分上何様之出来候とも早速引取、少々茂(も)御迷惑相掛申間敷候。為念差上申引請書一札 依而如
   安政四巳(一八五七)五月
                                   八日市場出羽宿
                                    組合惣代 半平 印
    薬師寺                             後家忰
      御別当様                          当地他行 半次郎
 
   引請一札之事
一、我等組合半次郎後家さき、六十一歳相成候。今般眼病相煩、御当院薬師様三七日之内心願相掛籠居候処、御利益有之日増全快御座候ニ付、尚又籠居信心致度、但願即引請書差上候間、且又御世話被下置奉願上候。勿論尤母身分ニ付如何様之義出来候とも早速引取、御貴院ニ少々茂御迷惑相掛申間敷候。為後日引請書一札 依而如件
   安政四巳五月二十六日
                                 八日市場出羽宿
    薬師寺                             組合惣代 半平 印
      御別当様                          後家忰
                                    当地他行 半次郎
 
 信心参籠のため眼病がよくなり、再度籠りたいのでよろしくお願いするというわけで、当時の風習の一端がうかがえる。
 当寺への参詣は病気平癒を祈願するだけでなく、一般的な観光旅行としてのものもあったのであろうか、今の広島県双三郡三良坂町の人が同寺を訪れた折、あるいは忘れたのかもしれない次のような通行手形が残されていた。
 
   手形一札之事
一、芸州領備後国三谿郡三良坂村畳屋菊太郎、此者儀宗旨代々法花宗門ニ而、拙僧旦那ニ紛無御座候。然ル処今般心願ニ付、甲州身延山併ニ諸国参詣ニ罷出し、何卒以御慈恵ヲ一遍之御首願御授与可下候。行暮レ仕候ハヽ、一夜之御籠之程偏ニ奉願上候。若又病死等仕節者、其所之以御沙(作)法ヲ御取置可下候。尤幸便御座候ハヽ後日ニ御知らせ可下候。為後日依而一札如件
   安政四巳年八月日
                                     同国同郡
                                       善光寺
    諸国詣所
    御寺院
       御役僧衆中
    諸国所々
       御役人衆中
 
 過去のこと、他人のことながら通行手形を置いて行った畳屋菊太郎は、帰国するまでどんなにか困ったことであろう。
 なお、今まで記述した福現寺境内・本堂などの模様は、昭和五十六年末までのことである。年が改まってからは建て替え工事のため本堂を解体し、既に新築落慶されている。
 同寺を中心として行われる行事の一つに題目講があるが、宮集落と合同で盆と春秋の彼岸の三回、主として老人たちがここに集まり、先祖の冥福を祈って題目を唱える。
 このほか、毎月一回行われているものに、鬼子母神講・十三日講があるが、これは婦人たちを主としたもので、当番がその設営に当たり、読経後にはご馳走が用意される。
 なお、当集落の子安講については前述のとおりである。