東は借当川を境にして八日市場市吉田地区に接し、水田地帯を隔てて飯高地区を望み、南方は一面の水田。西は鴻巣台地の畑作地と、その下方を県道多古・八日市場線が通じ、一方、南中・多古方面へと続く。北には台地畑作地を経由して南和田への道路がある。また、右の県道に接続して中城坂と呼ぶ坂道があり、鴻巣・北中から佐原へと続いた旧主要街道である。
国鉄バス成田・八日市場線の「南借当」停留所から北へ入ったところがいわゆる旧村であり、同所から東西に延びる家並みは、おおむね新村といえよう。
北部の産土社一帯は高台になっており、そこに数軒の民家があるが、大部分は台地山林および畑地下の平坦地に連なって建てられている。南北に長い集落といえる。
現在この地形に従って三つの廓(くるわ)があり、台九軒、辺田(へた)一〇軒、タナグチ一五軒の合計三四軒(一六三人)があり、文献上見られる最初の一八軒から比べると、約二倍の規模となった。
この地域は、気候温暖であり、地味肥沃に恵まれながら、借当川の自然流水の活用がうまくできず、豪雨に遭えば流水は溢れて道路を越え、滞水半月余にも及んで稲穂を流失させ、旱天が続けばその水も忽ち干上って美田もひび割れ、折角丹精した米作も台無しになってしまうような状況であった。
また、川の水利をめぐって他地区との間に水争いも起こり、そのため縁組もせず、ときには流血の事態を招いた事さえあったようである。このように、さまざまのことがらを底にしてこの川は流れ続けて来たが、寛延二年(一七四九)に、最も水利の悪かった入山崎・大堀の二村が提唱して、新川を掘りかつ河底を浚渫することを計ったが、下郷の反対で不成功。しかし、その後の度重なる水害のため、入山崎の人依知川兵蔵(一六九七~一七六六)が身を挺して関係者を説き、江戸にも往復すること数次にして遂にその工事を完成させ、それまでの「境川」から「借当川」と名を変えたのが、宝暦十年(一七六〇)である(香取郡誌)。
後に、川の幅員のことなどから、上・下両郷で不穏な動きがあったときも、兵蔵はこれも自分の任務であるとして江戸評定所に上陳したり、両郷の和合を図るために尽力して事なきを得た。これが、同十三年(一七六三)四月のことである。
とにかく、河川のすぐ近くに住む南借当の住民にとって、借当川の流れはそのまま自分達の歴史でもあった。
近代的な治水工事には、昭和二十六年十二月からの区画整理事業と用排水工事があるが、用排水路末端工事の補強および雑工事まで含めると、着手以来一三年の年月を費している。これらについての苦労は、流域沿岸に生活の場を置く住民にしかわからない。
なお、当集落での昭和五十九年十一月現在の地目別面積(大字東輝(とうき)分を含む)は次のようになっている。
宅地 三町三反二畝
田 二四町二反六畝
畑 五町七反七畝
山林 二町七畝
原野 九畝
その他 二反九畝
計 三五町八反六畝