ここで、北中(谷津)出身の碩学村岡良弼が明治十一年の秋、久しぶりに郷里に帰ったときの作『北総詩史』の一節を見てみよう。
二日、諸父石亭・兄氏箕山と共に銚子港に赴く。払暁借当村を過ぐ。借当読んで柏手の如し、上古食を盛るに木の葉を用う。故に膳夫(ゼンフ)とは加志波天(カシハテ)と曰う。
「景行帝之東幸也。磐鹿六鷹命(イワカムツカリノミコト)、膳羞(ぜんしゅう)(供え物、料理)の事を掌る。因って膳大伴部(カシハデノオオトモベ)となる。子孫は膳臣の姓を賜り総房に繁衍」
後、高橋朝臣と更める。神名式に結城郡高橋神社有り。
万里東巡侍二御厨一 塩梅果識賛二皇謨一
借当名与二滄桑一変 今日無三人認二旧区一
(「 」内は姓氏録にも記載されていることがらである。また、『続紀』に、「文武天皇十二年、改二膳臣一賜二高橋朝臣一」とある)
むかしは、食べ物を盛るのに木の葉を用いた。仁徳紀に「葉はこれを箇如婆(カシハ)といった」とあり、古事記には「御綱柏」とある。造酒司式に「長目柏」とあるのもそうである。
姓氏録をみると、景行天皇が東征されたとき(一二三年ころ)磐鹿六鷹命は、膳羞のことを掌り、膳夫の仕事に携わったことから膳大伴部となり、膳臣の姓を賜わって子孫は房総に繁栄したということであり、多分これらの子孫がこの地方にもいたものであろうことは容易に理解できる。
また、仁賢・武烈両天皇に仕えて功績のあった物部小事大連が、その功により匝瑳郡を創てこれを姓としたことが、続日本後記承和二年(八三五)三月の条に見られるが、当時その中心地といわれる当地方は、既に六所大神東方に字名を残す船塚・白幡の二古墳遺跡のことからみても、豪族が住居し、したがって当然のことながら集落を形成した生活を送っていたことと思われる。
さらに年代は下るが、康正元年(一四五五)三月多古・島の戦いで千葉家の正統断絶という大事件が起こったが、このとき鴻巣に二八人の勇士がいた。千葉胤直より援軍の催促を受けたが、近年困窮して支度が整わず出陣ができぬということから金三〇〇両を借りた。大いに喜んで早速それによって準備にかかっているうちに合戦の様相が急変し、胤直・胤宣父子は自害。そのため、戦場に出ないうちに戦いは終結してしまった。このことから時の人は「鴻巣の人々は、借当(かりあて)いたし仕り候――」と言い合ったとのことであり、そのときの借当(かりあて)を後に言い誤まって借当(かしあて)というようになった、との言伝えがある。
なお現在は、「南借当(みなみかりあて)」と呼んでいる。