次に、当地方の支配者はどのように移り変わったかについて、その概略を述べてみたい。
前記船塚・白幡二古墳は、匝瑳連、あるいはその族党の墳墓といわれているが、匝瑳郡の建置は四八八~五〇六年(仁賢・武烈帝)のころといわれており、香取郡が下海上国造と印波国造の一部をさいて、香取神宮の神都としてつくられたのは大化五年(六四九)である。
次いで大宝三年(七〇三)七月、上毛野朝臣男足が下総国司に任ぜられたが、当地区は「匝瑳北條庄中村郷」に属し、物部小事大連の子孫が陸奥鎮守府将軍に補せられて代々この地にいたとされている。
しかし、桓武天皇の曽孫高望王が寛平元年(八八九)に平姓を賜って上総介に任ぜられて以降、武人による群雄割拠の様相を呈し、当地方も高望王の子良将・良文が領したときその旗下となり、良将の子将門が乱を起こしたときも、また後年になって長元元年(一〇二八)に忠常が朝廷に対抗した長元の乱のときも、おおむねそれらの所領するところであった。
また、「前九年の役」「後三年の役」に、源頼義・その子義家に従って出陣し、その戦功を賞された中村小太郎常方が中城を築き、子孫に伝えたといわれるのは永承元年(一〇四六)ごろであったろうか。
治承四年(一一八〇)九月千葉常胤が上総目代を討ち、そのことにより千田庄の判官代千田親政は、目代が誅されたのを聞き常胤を襲おうとしたが、かえって常胤の孫成胤に捕えられてしまう。これで千田氏に代わって下総介に任ぜられた千葉常胤の所領となり、その後一族の千葉大隅守胤貞は中村郷窪(久保)にいて千田庄を所管していたという。
前述の千葉一族の内紛による島・多古の合戦のころ、中村但馬守が中城におり、千葉氏に属していたため馬加氏に亡ぼされたといわれるが、そうすると、鴻巣の勇士二八人にまつわる口伝も、あながち虚構ともいえなくなってくるのではなかろうか。
その後当地方一帯は、房州の里見・正木氏に度々侵攻され、また足利・上杉両氏の抗争、相続く千葉一族の内争と、これら戦乱のため領主とて定まることがないまま多古城主牛尾能登守胤仲の守護となり、次いで天正十八年(一五九〇)七月、北条氏の滅亡に伴い下総の諸城はそのほとんどが八月ごろまでに落城した。(これらのこと、一部通史編と重複あり)
小田原落城後、多古城主には保科甚四郎正光が任ぜられた。途中空城となったこともあるが、後に大炊頭土井利勝が寛永十年(一六三三)に転封になるまでここにおり、以降は代官支配となった。
寛永十二年(一六三五)十一月、豊前守松平勝義が多古領主となり、以後明治に至るまでこの地も松平氏の所領するところであった。
なお、これより先の永禄十二年(一五六九)に匝瑳郡の半分と海上郡の一部が、また貞享三年(一六八六)には匝瑳郡の内飯高・中村以北の地域が香取郡に編入されている。
ところで、松平勝行が国替えになった嘉永四年に、南借当村は独立して一村となるの旨が香取郡誌に記載されてあり、『辛亥日記』と称する多古五十嵐家文書によると、「嘉永四年四月八日南中村 並木 借当 是迠壱ケ村ニ而罷在候所 素々三ケ村有之公達向三ケ村ニ候間 此度より三ケ村ニ分郷被仰渡候」のように記されている。
南借当の村名は慶長十四年(一六〇九)九月十六日の文書に「下総国香取郡千田庄南借当村御縄水帳」と記されており、以後の多くの文書に「南借当村」とある。また宝暦十一年(一七六一)五月書上げになる「下総国各村級分」によると「高百弐拾八石弐斗壱升五合 松平豊前守知行 南借当(カシアテ)村 北中村枝」とあって「北中村枝」と記されていることが注目される。
次に弘化二年(一八四五)の『関八州取締役の控帳』には「南借当村 松平相模守領分 高百九拾五石三斗三升 家数拾八軒」とあって、南和田村・北中村・谷新田村(中村新田)・南並木村・南中村の名がそれぞれ区別された一村として扱われている。
さらに、明治元年の『旧高旧領取調帳 関東編』にはやはり右各村と並記して「南借当 多古藩 一九六石二三九〇 高霊社除地六斗七升二合」とあるところを見れば、柏手・膳臣・借当(カシアテ)の古事や、妙蓮寺古過去帳奥書などによっても、古来独立村であったといえよう。
ところで先述の松平勝行は、明治元年二月「松平」から「久松」に復姓し、翌二年八月三十八歳で死去。子の勝慈(なり)が家督を相続して十月に藩知事となった。このときの多古藩に属したのは南中村・南並木村・南借当村・中村新田であった。(北中村・南和田村の二村は宮谷県の支配に属した)。同四年七月藩を廃して県となったが、同年十一月にはその多古県も廃されて新治県の所管になり、同八年五月からは千葉県の管轄となるに及んだ。
同二十二年市町村自治制の施行によって「中村」となるまで、南中村外五カ村連合戸長役場が南中村に置かれ、南借当村もそれに属していたが、大小区への編入や、郡区町村制による香取郡役所の設置など、管理権者の動きは明治維新後目まぐるしいものであった。