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遺跡・旧址

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 中村砦址
 大字南中字中城にある。香取郡誌によれば「面積五町歩に亘る。地勢概ね平坦にして畠地となり、東南を楼櫓となし高さ五丈余(約一五メートル)の塁址を存し、西北に空湟あり周囲は概ね水田たり、以て昔時の状を追想するに足る」とその概況を説明し、次いで「伝え言う。永承中(一〇四六~五二)中村小太郎常方、源頼義に属し功あり。本城を築き子孫に伝えしが、享徳・康正中(一四五二~五六)中村但馬守之に居り馬加氏の亡ぼす所となる」と記している。
 平安時代(七九四~一一八五)の中ごろ、この地方一帯に君臨していたとされる中村太郎忠将は、桓武天皇の曽孫高望王より出た家柄の大豪族であるといわれ、父忠常は房総の各地を侵攻して「長元の乱」を起こし、ついに源頼信に降伏したが、このとき頼信が「降伏した者はしいて罰すべきではない」と寛大に考え、賊の汚名を着せて忠常を死罪にするようなことはせず、京都に護送される途中忠常は美濃で病死したので、その首だけを朝廷に差し出し、また子供たちの赦免の事をとりはからった。このような恩義に感激した千葉氏族一統は、それから源氏に好意を持つようになったといわれ、小太郎常方も頼信の子頼義に属し、父忠将(中村公ケ辺田(きみがへだ)台(坂並台地)に館し、人呼んで太太(だいた)長者という)の居城坂並から鴻巣台へと移り住んだものであろう、と伝承されている。
 続いて、「東北に妙見社あり、城の鎮守神たりしと。更に渓谷を隔てて監物山あり、共に南借当に属す。伝えて其臣隷の属城となす。址中往々古瓦を出し、古井を存す」と記載されているが、この妙見社は常方のみならず、千葉氏一門の守護神であることはつとに知られているが、前述のように、中城主の鬼門除けとして祀ったということである。
 監物山が家臣の属城であったということについては、その地形や他の支城との配置関係などから考えても、砦があったであろうことは容易に想像できる。
 土櫓(つちやぐら)およびその周辺
 妙蓮寺よりやや南方の台地上にある。東は崖となり周囲は畑作地である。ひときわ高い小山の形状をなし、樹木が茂っている。借当川流域を一望し、吉田・飯高・日吉方面の様相が手にとるように察知できる位置にある。小字名のとおり「土櫓(つちやぐら)」であり、中城の見張台であったものと思われる。

土櫓

 この近辺に古宿(ふるじゅく)という地名があり、昔の街道沿いと思われる所であるが、先年周辺の畑から住居跡が現われたという。
 また、東方根方に「馬洗井戸」という井戸があり、当時中城の武士たちが壺岡城(宮)へ行くとき馬を洗ったところと伝えられる。今は耕地整理のためその跡をとどめない。
 村落の中心道路から県道多古・八日市場線に出て四〇メートルほど西へ進むと、県道北側に道祖神と稲荷社が並んで建てられている。道祖神は四〇センチ位のものから二〇センチほどのものまで数基あり、年号の知れるものは「文政十三年(一八三〇)」が一基である。その東隣りに稲荷大明神があるが、「天保二卯(一八三一)二月吉日」の文字が見られ、高さは五〇センチ弱である。
 さらにその東側には昭和五十七年三月建立の稲荷宮があり、「寄贈越川幸蔵 氏子総代宮内勝治 並木昭典 越川清 三枝正志 宮内嘉助 並木克巳」の刻字が見られる。