まず『中村寺院明細帳』によってその概略を見ると、
千葉県管下下総国香取郡中村南借当字辺田
妙興寺末
日蓮宗 妙蓮寺
一、本尊 釈迦牟尼仏
一、由緒 明 二年正月南中村妙興寺第四世日法上人ノ教化ニテ真言宗改宗ス 開基ハ日順上人ナリ
一、堂宇間数 間口五間 奥行四間
一、庫裡間数 間口三間三尺 奥行六間
一、境内坪数 五百四坪
一、檀徒人員 九拾壱人
とある。この妙興寺四世日法上人とは、中納言阿闍梨を称し、峯・妙興寺から茂原の鷲巣へ転住となり、宝徳三年(一四五一)八月十三日に没した人である。『日蓮宗寺院大鑑』には当寺の沿革について「大観には延徳元年(一四八九)年中の創立。開山日順とある」と記し、開山は同じく日順となっている。
次に、当寺所蔵の『借当山妙蓮寺略縁起』を書き下し文に書き改めて載せる。
そもそも当山の初めは真言修験の霊場にして山伏の棟梁也。山伏を左京坊法印と申すは、三部灌頂の奥儀を極め、或は水を踏む事陸地の如く、火に入る事石の如く、自在の徳行無量也。
ここに人皇九十九代後光厳天皇の御宇延文四年(一三五九)、高祖の御再来中山ノ三代浄行院日祐上人、関東御弘通の始め、先ず当山の近郷近来に来らせ給いて御説法御修行の折(お)り節(ふ)し、子安地蔵尊縁日にして近里遠村の貴賤高下の参詣の群集を成しければ、日祐上人、人々に事の冝を問い給う。(以下余白)
このことによって、当初は真言宗であったことと、延文四年(一三五九)に中山三世日祐が当地方を布教に歩いたとき、その説法を受けたことなどが知られる。
また、古過去帳の奥書に
妙運(ママ)寺ト云ハ当寺ノ事也 北中村ニ淀ト云野有繁昌スル事無限 然ルニ日順玅運寺ヲ建立ス 年号未タ見当ラズ 大聖様ノ書附ハ 明応二歳(一四九三)四月八日左京日順ト有リ 本願八良右衛門ト有云々
従其零落「此間字失]寺内九万堂ト云原ヘ移シ奉ル 其時並木次良右衛門道院野午ヨリ[此間字失]牢人有テ無二ノ大信者ニテ 四十六度ノ逆修ヲ被成 毎度墓ヲツキ棺ヲ張リ作善被成候間 峯ハ村之惣寺ナレハ 御堂本願成テ建立シ則寺内之妙蓮寺ヲハ奉移
子孫並木一統何レ当寺之檀那ニ付 内寺ニ建立被成候 当所道院[此間七字損失]開山ニ被成、兄弟衆ヲ檀那トシ従其繁昌云々
▲従応永三十四丁未廿一歳至長享二戊申年
[洛陽 本法寺]開山久遠成院日親大聖人
▲八十二歳凡六十二年不惜身命
右者当寺安置之日親上人御位牌之写也 学遍日忍筆
維時正徳三癸巳霜月十四日江戸ヨリ到着 小菅ヨリ房州隠士日相授参十五日当山江奉納置者也 佐渡之産沙門恵照日能(当山五世)代
発願主並木久太郎 三支源之丞 施主当村信心檀越四五人
正峯山第二祖日忍聖人
全百代後円䖝院御宇大聖人ヨリ九十八年過テ遷化ス 永和五己未(一三七九)六月遷化 日弁(峯妙興寺開基)ヨリ六十八年目也暦応年中(一三三八~四一)ノ比大聖人御真筆ノ比丘日弁ニ授与之大慢荼(ママ)羅ヲ御持参ニテ 於二テ下総国千田之庄大嶋城一ニ此寺ヲ建立ス 其後峯ニ移ル 大嶋ト云 可尋子
右古過去帳ニ記之有也
借当山妙蓮寺檀方扣 檀頭並木次良右衛門 仁兵衛 源太左衛門 七之助 太兵衛 重右衛門 七郎右衛門 次兵衛 五左衛門 市郎兵衛 衛門 (抹消) 与平治 市三郎 縫右衛門 五兵衛 重兵衛 宇兵衛 多七 又兵衛 半兵衛 藤兵衛 重助 他檀芝長兵衛 半右衛門 町伊兵衛 五兵衛 高田五郎右衛門 喜兵衛 小左衛門 七郎右衛門 和田三之丞 久右衛門 西谷幸助
このように記されているが、過去帳の年代が不明の上その傷みもはげしく、加えて欠字等が多いため、内容の把握が困難である。
当寺の由緒を尋ねる上で、確とした文書によるものとしては次の一軸がある。本寺・峯妙興寺四十二世の日義が安永七年(一七七八)に書いた証書である。それには
借当山妙蓮寺者 往昔北中村淀ニ有之処之真言宗大日堂也 淀之坊と云
当山第四祖日法聖人之依教化致改宗 左京阿闍梨日順と云寺を妙蓮寺と改 延徳二庚戌年間郷之内光御堂ニ移 其後明応二癸丑年南中村熊野堂へ移す
享禄元戊子年今之借当へ移 号借当山妙蓮寺
当山末頭宝蔵之鑰(かぎ)役往古之記録吟味之上無相違者也
若末寺 論有之時者 此書を以可致証拠 仍而日弁授与之本尊相添 授与之者也
安永七戊戌年二月日
正峰山四十二世日義 (花押)
借当山妙蓮寺十世了啓日英
このように、当寺の顚末を明記し、鑰役(錠前の鍵を預かる役)であることも間違いなしとしている。なお、この鑰役であることは峯妙興寺文書に次のように記されている。
一、借当妙蓮寺ハ末頭ニ而 当山之御霊宝鑰役預り也
当山出仕之節 当 之次座ニ居 候 末寺ハ年切可為上座事
一、妙蓮寺末頭鑰役候事 当山七代目権大僧都等師(日等)之直筆彼ノ寺ニ在之也
これらのことから当寺の概要を知ることを得たが、建造物についての新・改築や補修、その他歴代が行ったであろう諸事業については、棟札その他の文書類がわずかしかなく、詳細はわからない。ただ、過去帳後尾に記されている歴代氏名の欄に、数文字で略記されているくらいである。それらをまとめて次に述べてみる。
まず九世日這は日忍直筆の妙見尊像(康永二年(一三四三)五月作)一軸を求めている。これは「妙見大菩薩 元禄十二年己卯(一六九九)正月十八日 願主本化沙門信解院日這求之」の棟札によってわかる。
そして、この後に書いたものであろうが、尊像画の裏面に
此表御本尊[巾弐寸壱分長三寸五分] 峯第二世日忍尊師之御真筆事無有疑悔 借当山妙蓮寺常住之霊宝也 是歳有檀信為父常信母妙安霊増進菩提新修飾表軸 従康永二年至元禄辛巳三百五十九年也 依妙蓮寺九世信解日這望染毫而已
元禄十四年辛巳(一七〇一)霜月日
日是 (花押)
施主中村町
芝田伊兵衛
と妙興寺二十八世日是(学心院)が裏書きを寄せている。
ついで十三世玄心院日信の欄には「半鐘主」と記されているが、この代(没年からみて明和のころ(一七六四~七二)と思われる)に梵鐘鋳造の事業を成したものであろう。十七世の了啓日英のときは、宗祖五百遠忌に当たっての供養塔を建立したようである。本堂に向かって左手に、竹垣に囲まれ、東方に面した一・三メートルの石碑で「南無日蓮大菩薩奉唱首題一萬部成就 安永九庚子(一七八〇)十月十三日 願主 檀方中 題目構中」裏面に「五百遠忌之〓塔 借当山十七世了啓日英」のように刻まれている。
続いて十八世禀教院日継(後に日享)となるが、そこには「台所家根替 客殿修覆」と書かれている。以後文政年間(一八一八~三〇)になっての二十四世誠心院日剛の欄にも、同じく「台所家根 修覆 」と、補修のことを記している。
次の二十五世超学日寛は、入口右側にある約一・三メートルの題目塔を建立したが、それには「南無妙法蓮華経 奉唱題目一千部[当村鴻巣]総檀中 天保二年辛卯(一八三一)二月 当寺廿五世 超学日寛 (花押)」の刻字が見られる。
二十七世晴光院日見のときから、檀徒柴田長太夫が、一代の間は毎年金二〇〇匹ずつを寄進することになった。その書は次のとおりである。
柴田長太夫一代之間年々歳末金弐百匹奉納当寺 右一ニハ為先祖代々六親眷属七世父母諸霊菩提
一ニハ為現在災障消除信根生長福寿増進祈禱 毎月奉読誦妙法蓮華経全部後代不可有怠慢者也
嘉永五子年(一八五二)四月
当廿七世晴光院日見 謹記
この柴田長太夫家は、現在の多古町において五十嵐家と共に残るただ二軒の割元名主(数カ村を一括して支配。名主と代官・領主との中間にあって年貢・諸役の割当てなどを行い、身分は士分に準じた)を勤めている。
そして明治となり、三十世光順院日受のときに「客殿台所新規 」。三十四世文明院日運(大正七年に山崎の金蓮寺四十二世となり、本堂・庫裡等を再建して中興となった)は「杉苗ヲ境内ニ植ユ」とある。この後を先住慈雲院日秀が承けて五〇年近く住持し、現在は長谷川存雄師が当山三十六世である。
以上は、歴代住職のうちで記録に残された内容を記したものであるが、例えば三十一世日俊代における「諸尊衣替」のことに関する文字は、その前後が不明であったりして判読が甚だ困難であった。
また、中村檀林日本寺の役僧であった住職は、当寺から同檀林へ移ったのも含めて次の九人を数え、その交流の深さを物語っている。
十一世日能 中村玄講
十七世日英 同右
十八世日継 同右
二十四世日剛 中村三側
二十六世日融 中村満講
二十七世日見 中村中席
二十八世日運 同右
二十九世日量 中村二側
三十世日受 中村文勺
この中で、十一世日能(恵照院)のことから、当時禁制宗門であった不受不施派についてふれてみたい。
それぞれ日本寺・峯妙興寺の項に記してあるように、両寺とも不受不施派寺院として重要な位置を占めていたと同じく、佐倉の昌柏寺もまた激しい弾圧を受けた寺としてその名を知られているが、その昌柏寺八世がすなわちこの日能である。佐渡の人で、享保二十年(一七三五)に没していることしかわからないが、墓碑の刻名まで削り取って不受不施派であることを隠した当時としては、当然であろう。
本山である峯妙興寺文書「誓状」には「所詮ハ不受不施ノ法理永不可改変之起請文也」とあり、その中に借当の村名が書かれていることを見ても、当寺および当村が不受不施派の法理を受け容れていたものといえよう。日本寺―妙興寺―妙蓮寺の法脈はそれがすべての時期と人物ではないにせよ、表に現われることなく受け継がれていったものと思われる。
時代は下って天保九年(一八三八)のいわゆる「天保法難」のとき、改信証文を提出して「お構いなし」とされた内信者は、南借当に隣接する村としては大堀村三人、北中村一五人、南中村三人、吉田村一一人であったが、このような状態の中で南借当はそれらの影響をどう受けていたものであろうか。無風であったとは思われないし、史料もなく、または不受不施派関係のものは隠滅し、さらには改竄(ざん)したと思われる点も見られることから、当寺縁起と共にいっそう今後の研究にまちたい。