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村の文書

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 生産と農民の生活
 ここに一つの古文書を紹介しよう。
 慶長十四年(一六〇九)九月十六日の水帳である。表紙に「下総国香取郡千田庄南借当村御縄水帳 安(案)内者次郎左衛門」とあり、多古町内においても多くの意味で貴重とされるもので、現在公民館に展示されている。
 
  上田合弐町五反九畝拾九歩
     分米三拾八石弐斗三升五合
  中田合三町四反九畝拾壱歩
     分米四拾六石弐斗
  下田合三町四反九畝拾壱歩
     分米弐拾四石四斗五升六合
  下田酉之起七反壱畝弐拾八歩
     分米五石三斗七合
  田合 拾町六反五畝弐拾八歩
     分米  百拾石六斗弐升八合
  上畑合四畝拾九歩
     分米四斗壱升壱合
  中畑合六反四畝拾四歩
     分米三石八斗六升八合
  下畑合壱町八反弐畝弐拾四歩
     分米五石四斗八升四合
  下畑酉之起 七反四畝拾四歩
     分米弐石弐斗三升四合
  屋敷合 壱反五畝弐拾八歩
     分米壱石五斗九升
  畑屋敷合 三町四反弐畝九歩
  田畑屋敷都合 拾四町八畝七歩
     分米合百弐拾八石弐斗三升五合
       此外
    永不田 壱町八反三畝弐拾歩
    永不畑 弐反弐拾九歩
       右之外
    屋敷三畝拾歩   妙蓮寺除
           以上
                              矢田忠兵衛
     慶長十四年酉九月十六日              糟屋弥兵衛
                              萩野孫六
                              柴山七右衛門
 
 すでに史上明らかなように、いわゆる「太閤検地」の最も盛んに行われたのは天正十九年(一五九一)からで、文禄四年(一五九五)には全国の検地を終了している。江戸時代の検地は慶長以来しばしば行われ、次第にその方法も完備した。
 この地方の検地がいつ行われたか明確ではないが、本三倉の越川平右衛門家所蔵の天正十九年(一五九一)の「下総国香取郡千田庄御縄打三倉村水帳」が二通あり、これは現存する本町最古の水帳である。多分このころに前後して当地一帯の検地が行われたものであろう。
 ここに示した水帳は、歴史的な分類からすると江戸検地に入るものである。この検地によって一村の総地籍を実検確定し、各田地の品等・石高・反別・地主名などを記載した帳簿を作り、支配役所から各村々へ下付して租税課役等の基準とするわけである。そしてその基準となるものは主に反別と石高である。
 反別六尺平方(天正検地では六尺三寸)を一歩(坪)とし、三〇歩を一畝、一〇畝すなわち三〇〇歩を一反とする。石高は一反についての玄米収穫量をもって表わし、これを四等に分けたもので、上田一反一石五斗、中田一石三斗、下田一石一斗、下々田は適宜に定めることになっている。畑は享保(一七一六~)以後に石盛(反別に石高を盛付けること)を行い、上畑一石二斗、中畑一石、下畑八斗、下々畑は適宜のことであった。
 この水帳によって南借当の石盛がどのようであったかをみると、上田一石四斗七升、中田一石二斗、下田七斗、上畑八斗八升七合、中畑六斗、下畑三斗の割合になっている。上・中田は別として、他はかなり低収穫であったことがわかる。そして、この石盛に税率(免(めん))の四〇~五〇%を乗ずれば年貢米の額が知れるのである。
 俗に五反百姓という言葉があるが、この程度の耕作をする者が大部分であったからで、およそ平均的なものでもあった。南借当の場合の平均耕作面積は田五反九畝、畑一反八畝、田畑合せて七反七畝である。
 そこで、中田五反五畝、中畑一反五畝を持つ農民の場合を例に考えてみよう。まず田の石盛は一反当り一石二斗であるから総収量は六石六斗、畑が反当石盛り六斗で収量は九斗、都合七石五斗(一俵四斗入りとして一八俵三斗)となる。
 これから四公六民の税率としたとき納める租米は二石六斗四升である。したがって自分の手元に残るのは四石八斗六升(一二俵一斗五升)となる。これは自作農の場合であって、小作農はこの他に地主へ小作料としておよそ三〇%の二石二斗五升を納めるから、残りは二石六斗一升(六俵二斗一升)にしかならない。しかも、田租の他に山野の生産物に対する諸税や諸役、河川修復の費用などはなお別途支出であり、その上当然のことながら家族を扶養していかなければならない。
 右に例として上げたのは南借当の平均的な農民であるが、貧農に至ってはこの苛酷な租税課役にどのように対処したのであろうか。
 ここに、年貢上納に困った農民(自作農)が土地を担保に借金した証文がある。なお、次に載せる二通の文書については、名前を伏した。
 
   預り申金子手形之事
一、金子壱両ハ       文字金也
一、質地内宿畑半分にて   米六斗付
 右ハ巳(年)ノ御年貢未進ニ差詰リ申候ニ付、請人立会貴殿方より借用申シ、御未進御上納申候処実正也。利合(利息)ノ儀ハ二割半ニ相定申候。此金之質物ニ、我等所持ノ内ニ而内宿畑半分質入申候。当午(年)ノ秋より御手作なさるべく候。暮々ノ米相場を以て御勘定ニ成、元利済切申さざる内ハ何年も此証文を用い御手作ならるべく候。元利勘定相済み申候上ハ、畑御返し下さるべく候。後日の為請人加判入置申候。仍而如件
                                  金子預り主 何某
   文久三年午七月日                          請人 何某
                                     同断 何某
    何某殿
 
 このように、質入れする自分の土地を持っている者はまだよかった。次に掲げるのはやはり年貢上納に困って息子を年季奉公に差し出し、その給金を以て年貢代として納めた例であるが、このようなことは決して珍しいことではなく、どこの村にも見られるものである。
 
   請状之事
一、当亥(年)御年貢御上納ニ差詰り申候ニ付、我等忰 次郎と申す者、貴殿御地頭様へ御奉公ニ指(差)置き、身代金として金二両慥ニ請取、御蔵へ石代金ニ御上納申所実正ニ御座候。然ル上ハ御屋敷之御作法相守り御奉公相勤め、御意次第ニ仕るべく候。若し子(年)の一年季之内ニ取逃、欠落仕ハヾ尋ね出し、取物之品ハ申すに及ばず、其上御給金なりとも御屋敷様の仰付られ次第ニ仕る可く候。其為請人名主加判、仍而如件
                                   何村人主 何某
   寛保三年亥十二月                          請人 何某
                                     名主 何某
     何某殿
 
 これら農民は、普通作の年でも米麦半々のものか雑穀類を食べ、幕府から度々の倹約令がなくとも自然に倹約令以下の生活を余儀なくされていたのである。凶作年には「破免」といって当年の年貢を免除または減額されることはあったが、収穫の絶対量が少ないのであるから種籾・種麦まで食い尽くし、やむを得ず役所に願い入れて種子代金を借りるようなこともあった。
 普段は米麦作りのほかに、養蚕、煙草作、筵織、縄ない、薪作り、炭焼、川漁などの副業に精出し、日雇い稼ぎにも出て日銭を貰ったりしたのである。これら副業の多くは近年まで、またその一部は現在も当地に続いている。