社域に現存するおもな石造物などは以上であるが、さらに同社の裏山で字高野台一〇六〇番地のところに、十二軒党と称される旧屋敷跡があり、そこに個人の氏神と思われる三〇センチほどの無刻の石塔がある。
また、同所に『千葉県史料』にも収録された下総式題目板碑が一基建立されている。その板碑は高さ七七センチ、幅四一センチのもので、次のように刻まれている。
逆修
妙 妙性 妙
大持国天王 (種子) 大増長天王 妙金 沙法
法 妙
右為先師日善〓悲母妙円各卅三年〓也 法 妙
南無上行無辺行〓 日近 妙
南無多宝如来 南無法主大聖人 日代 性忍
日弁 日禅 妙怡
南無妙法蓮華経 日道[逆修]妙秀
南無代々先師 正円
南無釈迦牟尼佛 能 妙経
南無浄行安立〓 妙徳
永享六年(一四三四)十二月十一日 弟子等敬白 妙信
妙善
大毘沙門天王 (種子) 大廣目天王 妙 妙了
妙暹
妙當
すでに五五〇年あまり風雪に耐えて来たもので、先師日善・母妙円の三十三回忌を営むに当たって建てられた供養塔であるが、そこに刻名された人物像が解明されることによって、郷土における歴史が新しく展開されることを期待するものである。
ここが十二軒党の旧屋敷跡であるといわれていることは前記のとおりであるが、そのことに関連して、春日社のお備社(びしゃ)について多少他の集落と異なる点があるので、略記しておく。
産土社春日神社のお備社は、毎年正月十五日神官による御開帳から始まり、玉串奉奠・祝祠奏上があって村民一同の無病息災・家運繁栄が祈念される。この式が終わって後、場所を光明寺の庫裡に移して酒宴となるのであるが、里芋・人参の串差し、生大根の井桁、納豆、生肴などの料理を膳に盛って、特に十二の膳を上座に並べるということが他地区と異なるところである。
往古当集落が十二戸の草分けから始まったという古事から行われ続け、十二戸の当主がその膳に座ったのであるが、現在はその十二軒も判然とせず、また時代の推移による慣行の変動も伴って、その席に着くのは年長者・役員などである。
この備社行事が、春日神社から光明寺へと会場を移動して行われるのは、神仏混淆の考え方が残されていた時代の名残りといえよう。