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寺域の小宮・石碑

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 本殿外には次のようなものが見られる。
 半鐘 高さ六四センチ、直径三七センチのもので「施入面々二世安楽 檀方中諸願満足 所志諸霊菩提 安永六丁酉年(一七七七)正月吉辰再鋳南無妙法蓮華経 十六世日明代 下総香取郡並木村常照山光明寺 常什」の刻文がある。すなわち、十六世日明のときに再鋳したものである。
 打ち鳴らし(通称ざるがね) 「嘉永五壬子(一八五二)十一月八日求之龍亀山佛乗院(八日市場市松山か)什物 寄進松山春海旦那中 現住賢阿代」の記があり、直径が三一センチのものである。
 大梯子 当集落には、江戸末期から明治にかけて「神楽囃若者連中」があり、光明寺境内にある樅の大樹に梯子をかけて神楽舞をしたのであるが、かつて香取神宮の上棟式に頼まれたときは、この梯子を運び、神宮の杉の木にかけて獅子舞をしたという。
 この梯子は明治二十四年六月に新造されたもので、長さが一三メートル、幅四九センチあり、本殿の廂(ひさし)のところに掛けて保存されている。
 同寺境内の右方に、七面天女を本尊とする七面堂があるが、木造亜鉛葺きで間口・奥行とも三・六メートルの建物である。内部に石塔があり、「七面大明神 天明元辛丑年(一七八一)十一月 灰吹屋市右衛門」と書かれている。そして損傷のある棟札には、「寛政元己酉閏(一七八九)六月吉辰造立 名主飯田七郎衛門 大工飯田清右衛門」このように読める。また本尊の納められた厨子には、その内側裏面に墨書があり、「奉勧請七面大明神 天保第八(一八三七)龍舎強圉作噩余日」。さらに、内部にある棟札の裏面に
 
当七面堂ハ宝永元年(一七〇四)ニ造立シ寛政元年(一七八九)再興ス 造立ヨリ再興迠八十一年 再興ヨリ本年迠百四十一年経過セリ 造立ヨリ二百二十二年ノ古尊堂ナレバ 屋根内外殿ノ大破少ナカラズ 依テ檀中評議ヲ為シ 此ニ協議一決大修繕完成セリ
益々祈信力増進寺檀和合
     昭和四年四月
         光明寺卅三世寿昌日晃代
                                  総檀方中 時区長  飯田七郎
                                       仝世話人 飯田善郎
                                            仝玄次郎
                                            仝秋太郎
                                       大工   飯田義造
 
 このように造立・再建のことについて略記されている。
 同じく境内・本堂前に疱瘡の神といわれる妙正様(妙照大善神)が祀られている。明和三年(一七六六)の創立で、当地に疱瘡が流行したことから建てられたという。木造亜鉛葺きで間口一間、奥行七尺の建物である。
 
  「千早ふる 卯月八日は吉日よ
      かみさけ虫の 成敗ぞする」
  の和歌が掲額されている。
 
 石段の上下にそれぞれ一基ずつの石柱があり、上部のものには「南無妙法蓮華経 日成(花押) 後五百歳遠沾妙道文化十二亥歳(一八一五)十一月如意日 常照山廿二世分修院 願主当村惣若者中 世話人前林庄左衛門 飯田甚三郎 飯田勝蔵」。台石に「光明寺」とある。
 石段下にあるものには、正面に「光明寺」とあるほか、次のように刻まれている。
 
  竣工 昭和四十四年七月
  工費 二十万一千円也
       檀家一同並住職寄贈
            区長   飯田静一郎
            工事委員 飯田治示
            世話人  飯田英雄
                 飯田 操
                 印藤幸志
            住職   鈴木教常
 
 境内わきに歴代住職の墓石があるが、最古のものには「慶安三年(一六五〇)八月廿二日」の紀年がある。これは中興の祖といわれる日宗(崇)のものであろう。
 なお同寺に保管の什宝・文書として、日親・日祐両聖人の親筆といわれる曼荼羅が一幅ずつと、釈迦如来の臨終を描いた掛軸一幅がある。
 中村新田の人達は、かつては千田の寺の檀徒であったが、移住入植当時は島正覚寺(旧妙光寺)の檀家となっていたようである。現在は当光明寺に属しているが、この移檀は明治三十年ごろと思われる。このことによって宗教的諸行事は南並木と共にとり行われるようになった。