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村の伝説・民話など

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 この項を終るに当たり、伝説・昔話などを二、三記述してみよう。
 夏雲信士 印藤利左衛門家の使用人に、雷を恐れぬことを自慢していた者があった。雷鳴が激しくなると素裸になって天に向かって嘲笑と罵声を事とし、自己の蛮勇を誇示していた。
 ある時この男が船に乗って久賀方面へ行ったとき雷雨に遭い、例によって雷神へ挑戦の所作をしたのであるが、天罰というべきか落雷を全身に受けて焼死してしまった。このことは今に伝えられ、当集落の人達は雷に対する恐怖心が人一倍強いという。
 この落雷死した男の墓石に「夏雲信士 弘化四年(一八四七)四月二十七日」とある。
 大力持ち また、同家に大力持ちがいた。米俵を船へ積込む時、両手に一俵ずつ下げて足にふれることなく渡し板を歩いて行ったという。とんでもない作り話ではなく、あるいはそれくらいのことなら――、と思わせるところに真実性がある。
 雁捕りの名人 板倉家に鶴吉という雁捕りの名人がいた。明治末期頃までは雁がこの地方にも多く飛来し、耕地へ舞い降りて翼を休めたものであるが、「ハガ」といって竹を割いてとりもちをつけて捕える方法で、多古藩主などにも度々召出されては雁を捕えたという。
 五合堤 南並木から中村新田までの堤は約七〇〇メートルほどあるが、冬ともなれば西風が四六時中吹き荒れ、酒を五合ほど飲んでからでないと寒さに震え、新田まで辿り着かないということから、寒い堤の別名を五合堤というそうである。
 葬儀の食膳に赤飯を添えること 明治二十年ごろ、長寿者の葬儀に餅を搗いてごちそうしたことから、この長寿者にあやかって各家々でも餅を食膳に出すようになり、そのことが定着して慣習的なものとなっていた。
 昭和期に入って戦争が続き、家によっては青壮年男子がいないため餅を搗くことができず、赤飯にして膳部に添えた。このことから「葬儀に赤飯」の風習は現在に至っている。
 なお、赤飯になる以前に、ぼたもちを出したこともあったということである。