明治維新を迎え、かつての中村郷のうち北中・南和田の二カ村は、新政府の府藩県三治制に基いて、明治元年七月から上総安房県知事柴山文平の管轄するところとなり、同二年二月に新しく宮谷県が設けられてからはその所管となった。
そして、南中・南借当・南並木・中村新田の四カ村は旧来どおり多古藩領として、藩知事久松勝行および継任した勝慈の支配下におかれ、廃藩置県となった同四年七月からは多古県に属した。しかし、同年十一月には宮谷・多古両県は廃止されて、新しく成立した印旛・木更津・新治三県のうちの新治県に移った。
新治県は、常陸国新治・筑波・河内・行方・信太・鹿島の六郡と、下総国香取・匝瑳・海上の三郡合わせて旧石高六十一万石余で、県庁は常陸国新治郡土浦に置かれた。
同五年四月に封建制村役人制度を改めて、それまでの名主などをすべて戸長と改称し、土地・人民に関する一切の行政事務を扱わせることになった。同十月には大区小区制が制定されて、新治県は五大区と五十一小区を定め、後の中村全域は第五大区第七小区に編入された。
同六年六月に印旛・木更津の二県が合併して千葉県が設置されたが、同八年五月に新治県が廃止されることによって下総三郡(香取・海上・匝瑳)は千葉県へ、常陸六郡は茨城県へそれぞれ編入された。
この年の六月に峯の妙興寺本堂を借りて、「南中小学校」が創立されたが、八月に施行された学区制によって第一大学区千葉県管内第二十六番中学区に属することになった。いうまでもないが、この学区制は行政上の大小区とは別のものである。
同九年一月、千葉県区画の更正があって、片子・大堀・金原・安久山・入山崎・南山崎・北中・南中・南和田・南借当・南並木・中村新田・南玉造の十三カ村が第十五大区三小区を構成し、小区取扱所は南中に置かれて南山崎村の林伝兵衛が区長となった。
同十一年七月郡区町村編成法が制定されて大区小区制が廃止となり、毎郡に郡長、毎区に区長、毎町村に戸長をおくことになったが、その殆んどは数カ町村が連合して戸長役場を設けた。そして、南中・南借当・南並木・中村新田の四カ村が連合して戸長役場を南中村におき、北中・南和田の連合戸長役場は北中村におかれた。
南並木と中村新田の二村は、同十五年六月に「南中村外三カ村」連合から分離して「南並木村外一カ村」として独立するが、同十七年に戸長役場所轄区域の変更がなされ、南中・南借当・南並木・中村新田・北中・南和田の六カ村をもって「南中村外五カ村」連合としたとき、再びその構成村となった。この南中村外五カ村戸長役場は南中村におかれ、六カ村連合の戸長には南並木村の前林庄輔が就任し、各村には用掛がおかれた。
このときの戸長役場記録で、明治十八年度南中村外五カ村費決算報告書が残されているが、それを見ると予算額三八四円一〇銭、執行額三六四円二九銭である。なおこの年の米価は一俵一円七三銭であった。
同二十一年四月に市制町村制が制定されて、翌二十二年四月から従来の連合六カ村を「中村」と改称し、村議会議員の選挙が行われることになった。そのことを記したのが次の文書(戸長役場記録)である。
本日諸君ヲ召集セシハ 兼テ本月一日ヨリ実施セラルヽ町村制ノ義ニ付会同ヲ煩ラハセシナリ 就テ町村分合ノ義モ本県令第拾八号ヲ以テ発布相成リ 当従前連合六ケ村ヲ以テ中村ト改称シ 一ノ自治区ト確定セシニヨリ御了知ヲ乞
扨 組織上ノ件ニ付主トシテ諸君ノ御注意ヲ乞ハサルヲ得サルハ 第一議員撰挙ナリ 本村ハ人口二千拾壱人ナルニヨリ議員拾弐人ヲ要ス(町村制第十一条ノ制定ナリ)
撰挙人ノ資格ハ独立ノ男子満廿五年以上ニシテ一戸ヲ構ヒ 直接国税弐円以上ヲ納ムルモノハ公民権ヲ有シ 撰挙人ノ資格アルモノナリ 因テ本日出頭ノ諸君ハ純粋ノ撰挙人ナリ
撰挙人ハ分テ二級トス 撰挙人ノ中直接町村税ノ納額多キモノヲ合セテ全員ノ納ムル総額ノ半バニ当ルベキモノヲ一級トシ 余ノ撰挙人ヲ二級トス
撰挙人ハ毎級各別ニ議員ノ半数ヲ撰挙ス 其方法ハ[一級二級]ノ両級ニ通シテ撰挙スルヲ得 譬ヒハ議員十二名ノ内六名ハ二級撰挙人ニテ撰挙シ 残リ六人ヲ一級撰挙人ニテ撰挙スルナリ
各議員ハ名誉職ニシテ 任期ハ六年ナリ 三年毎ニ各級ノ半数ヲ改撰ス(中略)
撰挙ハ投票ヲ以テ之ヲ行フ 其投票ニハ被撰挙人ノ氏名ヲ記シ封緘ノ上 撰挙人自ラ掛長ニ差出スヘシ 但シ撰挙人ノ氏名ハ投票ニ記入スルヲ得ス(中略)
議員ノ撰挙ハ有効投票ノ多数ヲ得タルモノヲ以テ順次当撰ヲ定ム
このようなことから新しく「中村」が発足し、旧村は大字名となって現在に続いている。のち、南並木と中村新田、北中と南和田がそれぞれ事実上は一つの区となったことから、中村は南中・南借当・南並木・北中の四区によって形成され運営がなされて来た。
昭和二十八年九月に町村合併促進法が制定され、翌二十九年三月に旧多古町・久賀村・常磐村・中村が合併して新しく多古町が誕生し、古代に中村郷といわれ、正倉院文書にも残る「中村」の名は消えた。明治期の成立以来、六十五年の歴史であった。