古く住民は区の西北の台地に住んでいた。多古台・桜宮・駒木台・浅間台など一連の台地上には原始・古代の住居跡、古墳があり、随所に縄文・弥生の土器などが見られ、石器が出土する。また栗山川から独木舟が発見(高根地先昭和三十三年調査)され、原始・古代人の生活の跡が見られる。
その後長い年月の間に徐々に住民の移動、または流入によって現在のところに集落ができ、谷地を開き沼池を干拓して耕地を広げ、村が形成されたもののようである。
ここに「草分け伝説」がある。もと桜宮付近に住む住民のうち、七軒が移住して多古の草分けとなったというものであるが、具体的には明らかでない。
平安時代(七九四~一一八四)の末期には千田庄に属し、領家判官千田親政が支配した。
中世(一一八三~一五七三)には千葉氏の所領となった。南北朝時代(一三三六~九二)千葉胤貞の後裔胤氏は多古付近を領して多古氏を名乗り、三子胤満が後をつぎ、胤春以下千田氏を称して子孫数世に伝えた(松蘿館本千葉系図)。室町時代(一三三六~一五七三)の末期には、千葉氏の支流牛尾胤仲が多古領主となり四隣を領した(『多古由来記』。胤仲については「多古城主牛尾胤仲」として別記した)。
天正十八年(一五九〇)八月から慶長五年(一六〇〇)十一月まで保科正光。同九年(一六〇四)から元和八年(一六二二)にかけては土方雄久(おひさ)・雄重(かつしげ)父子。このあとを、慶長十五年(一六一〇)春から佐倉藩主となっていた土井利勝が、寛永十年(一六三三)に古河へ移るまで所領とした(『寛政重修諸家譜』)。一時幕府直轄領となったが寛永十二年(一六三五)松平勝義の領地となり、以来松平氏によって明治に至るまで支配を受けた。
明治維新後多古藩、明治四年七月多古県、同年十一月新治県(翌五年から第五大区小七区)、同八年五月千葉県(翌九年から第十五大区一小区)に編入され、同十一年染井・島・水戸・千田の連合村となり戸長役場を多古村法福寺においた。同二十二年十一カ村と合併して多古村、同二十四年六月に町制を施行して多古町と改称した。
なお、地名の起こりについては通史編を参照していただきたい。