桜宮遺跡 字桜宮、散布地、台地、畑、縄文式土器、土師器。
桜宮貝塚 字桜宮、貝塚、台地、山林・畑、縄文中期。
木下貝塚 字木下三七七六ノ一、貝塚、台地、畑、縄文以降の土器片併出。
源氏堀古墳 字源氏堀三九七〇、古墳、台地、山林、円墳二基。
谷上古墳 字谷上三九三〇、古墳、台地、山林、円墳一基。
(注)所在地、種類、立地、現状、摘要の順に略記した。
多古台遺跡群
所在地は字多古台。昭和五十年十二月から五十一年五月まで、日本文化財研究所によって調査され、報告がなされている。この調査は、同地が多古台住宅団地予定地内にあるため、埋蔵文化財の確認と一部発掘調査の必要から実施されたものである。
調査は台地北側大宮大神の裏を第一地点、同社前を第二地点、南切通・広沼台を第三地点として確認調査、飯倉台古墳を第四地点として発掘調査された。以下調査概報から各地点のまとめを抜粋させてもらった。
第一地点 第一地点は深耕による攪乱が著しく、遺跡の保存状態は決して良好ではなかった。調査によって確認した遺構はすべて大溝の東側に片寄っていた。また、この遺構群は中世の城館址に関係ある遺構ではなかろうかとの疑問も生じたが、調査自体が未買収地や畑地の関係で充分な調査が行きとどかなかったためもあり、そのことを積極的に支持すべき証左は得られなかった。
遺物は縄文時代より近世に至る遺物が出土したが、いずれも貧弱な量であった。縄文時代の遺構としては炉穴らしきものが一基のみで、時期を前後して若干の足跡を印しているものの、この地点での定住は遺構・遺物からは明瞭に確認されてない。他の遺構はそれ以後のものと思われる。縄文時代以後の遺物については原位置を保っている保証はないが、そのほとんどは遺構のある区に集中していた(新井和之)。
第二地点 本地点遺跡において最終的に確認された遺構は、住居址・溝状遺構・ピット群と比較的少なかった。台地全域に遺物が散布しているわりには、これら遺物の使用された時代の遺構は一、二カ所にとどまっている。住居址については、遺物の出土状態・住居址の形態・さらに遺物の文様構成などからして、弥生時代後期中半から後半にかけて営まれたものと理解してよいだろう。
おそらくこの住居址は集落の南端に位置したものと考えられる。なぜなら、住居址より以南では土器の散布はおろか落ち込みすらも見出されず、北側の大宮大神寄りの畑地より二、三片の土器が得られていることからもある程度の推測はつく。北総地域、特に印旛沼南岸地域において多く見られる北関東的様相をそなえた土器群とかなり類似性をもった土器が本地区において発見されたことは、その時代の文化圏の究明の一助をになうものであろう。言いかえればその文化の主体をになう印旛沼南岸地域からの文化の波及がこの地区にまで及び、ひとつの文化圏を形成していったものとの推測が可能となってくる。
さて中央部の溝であるが、使用目的は不明といわざるを得ない。溝というよりも、プール状の遺構とした方がよいかもしれない。隣接した各グリットにおいても拡張区においても、連続性がまったく見られなかった。
小溝内より得られた須恵器群は、土師時代晩期の国分式土器の範疇に組み入れられるものである。この小溝が土師時代のものであるかどうかは不明といわざるを得ないが、これら須恵器が廃棄されたものか、意図的に埋納されたものかは定かではない。しかし、得られた須恵器がすべて日常什器であったということと、破片がすべて接合でき、同一時期のものであるということに注目したい。
次いで、ピット群・小溝・溝状遺構についてであるが、城郭あるいは館址に伴うものとしては主体性を欠いているが、第三地点に隣接するいわゆる「多古城」に関連をもつ遺構群と理解することができるのではなかろうか(矢吹俊男)。
第三地点 本地点は第二地点遺跡より谷津をはさんで南側に位置している。その調査対象区域の総面積は三三、七五〇平方メートルと多古台遺跡のなかで最大の規模をもっている。
調査は、遺構の有無と広がりを確認するだけのいわゆる試掘の状態で進められた。この調査は本地点の南側、広沼寄りの地区から開始された。
本地点における遺構の分布は、一応調査対象全域にわたっているが、調査区の南西区域において比較的まばらな状態であった。最終的に確認された遺構は、住居址、その他の遺構一三六カ所(重複をも含む)、内容不詳の遺構二三カ所、溝状遺構二カ所、カマド一七カ所(焼土および粘土の散布)、焼土四カ所であった。
これら遺構の確認面に至るまでに検出された遺物は、縄文式土器・弥生式土器・土師式土器、中世・近世の古銭、陶器類と多岐にわたっており、内容もバラエティに富んでいる。縄文式土器は中期の土器がやや主体的に出土しており、他に早期、後期、晩期と多時期にわたって出土している。弥生式土器については北総地域、特に印旛沼南岸地域を中心として見出される北関東的様相をもった後期の土器が見られ、北関東南部―利根川流域と本地域、あるいは北総地域との文化の関連性を考えるうえで興味深いものである。主体的には土師時代晩期の真間式、国分式の土器で占めており、特に終末期の国分式土器の散布が、出土した土器のなかでは主流をなしている。その当時の集落址の存在がうかがえる。
次いで中・近世の遺物であるが、内容としては、古銭―永楽通宝、内耳土器・陶器類の出土が認められる。この多古台には千葉氏の居城が構築されていたことが知られていることからも、城郭あるいは館址に関連したものと考えられる。さらに、確認された溝状遺構も本台地を縦横に走っており、それら城郭の一部であると考えられる。
確認調査の段階で本台地において各時代を通じた遺構及び遺物が発見されて、その当時の人々の生活の変遷を多少なりともうかがい知ることができたことは、今後、本地域における本調査にかける期待は大きく、興味深いものと考えられる(矢吹俊男)。
第四地点 本古墳は、幅三〇メートルほどの狭少な枝状台地上にあり、独立した景観を与えている。墳丘は、直径一九・五メートルのほぼ円形に台地整形がなされた円墳であり、周溝がない。墳丘は、築造当時、高さは三メートル以上あったと考えられる。また、主体部となる埋葬施設は、築造面より不整長方形に掘削され、さらに、土壙が掘り込まれている。土壙部には、なんらの痕跡もなかったが、木棺直葬であったと考えられる。周溝が認められないというのも、単に狭少な台地であったためとは考えられず、埋葬施設のあり方などから、かなり特異な存在の古墳ともいえる。
本古墳が、いつ頃築造されたのか、これは、古墳自体の形態的な特徴とともに、埋葬施設より出土した遺物によって窺えよう。鉄製品をみれば、直刀は、比較的細身の例といえ、後期的な性格があり、鉄鏃は、逆刺をもつ尖根式に近いもので、前期後半の型式のものといえる。一般的に、五世紀に入ってから埋葬される石製模造品については、六世紀にまでは時間的に組み込まれないものと判断される。
その内容については、鏡二面、双孔円板一七個、鎌六個、剣五個、刀子九個、斧頭五個、そして臼玉一、一五三個が出土している。この内容と比較できる例を出土した古墳としては千葉県内では、千葉市七廻塚古墳、木更津市長州塚古墳があげられるが、種類の豊富さでは群を抜いている。他県に求めるなら、群馬県藤岡市稲荷山古墳、茨城県大洗町鏡塚古墳、東京都世田谷区等々力大塚古墳などがあげられるが、数量的には及ばない。
模造品自体においては、刀子などは、簡略化された形のものが多く、そして曲刃の鎌は五世紀後半の様子を示していると考えられる。最も注目してあげられるのは、須恵器の坩といえよう。
その種の須恵器に限ってみれば非常に類例に乏しいものであり、比較検討に困難する資料である。房総における須恵器の生産は、六世紀に入ってからだとの例もあり、五世紀後半における須恵器は、招来品であると考えられている。今ここで、滑石模造品等の判断から、本古墳の築造年代を五世紀後半とするなら、やはり本古墳出土の坩も招来品として考えざるを得なく、今後多くの例をもって検討を要する余地のあるものである。
千葉県内において、古式な須恵器として、富里町鳥山二号墳、千葉市大森第二遺跡などで発見されており、それぞれ招来する須恵器の意義も異なっていると考えられるが、本古墳出土の須恵器は、供献的なものであったことが考えられる。ここでは本古墳の所属年代は五世紀後半、それも末葉に近い年代であると考えておきたい。
五世紀後半は、いよいよ大型の前方後円墳が盛行している時期であり、政治的中心地である畿内からの影響を多分に受けつつある時期である。副葬品はそれを物語るごとく、大陸からの影響を受けた金属品が認められる。
こうした政治的な権力支配の表現がなされた一方で、在地の地域支配者は、なお共同体(態)的祭礼の表現として古墳の築造を行っていたと考えられ、五世紀末に至っても、共同体(態)的供献の性格を持つといわれる石製模造品の埋納が行われていた。まさに本古墳の被葬者も、こうした在地勢力の一支配者であったと推定され、副葬品はこのことを裏付けているものと考えられる。
本古墳周辺地域での古墳の調査は比較的少なく、芝山地区に至らねばならない。それも本古墳の所属する年代よりやや後出の時期の古墳であり、古墳群をなしているものである。
近年次浦古墳(前方後円墳)が調査され、滑石製模造品など本古墳と類似した内容の出土遺物があったと聞く。本古墳との比較検討によって、在地勢力の発展過程を知る上でも貴重な資料と思われる。そして本古墳が如何なる政治集団の位置に組み込まれていたのか、また如何なる支配的位置にあったのか、今後の調査・研究が待たれる。
今回の発掘調査に並行して、第三地点の確認調査が行われ、五領~国分式までの土師式土器が知られ、集落址も予想されるところから、本古墳の被葬者との関係もある程度明らかになるのではないかと考え、期待が寄せられるところである(柿沼修平)。本古墳の出土品は町公民館に保管されている。
駒木台遺跡
字駒木台。現在の多古中学校の敷地に数基の古墳があったが、昭和十年代に多古農学校の農業実習地として、また第二次世界大戦直後の開墾により破壊された。人骨・直刀などが出土し、後期古墳と推定される。
旧地(字本込二九五七番地)に昭和二十三年三月開墾した住民によって被葬者の慰霊供養のため「駒木神社」の石碑が建立された。
同所東側中腹に推定一七基の横穴古墳が横並している。また現在の野球場(造成前)には古墳時代の住居跡があった。
浅間台遺跡
字浅間台の東南中腹(本町、高根台)にかつて数基の横穴古墳があった。同所から土器・装飾品など遺物が出土したが現在消滅した。
城址
多古台には三つの城址がある。南西広沼台に「古城址」、東南に「多古城址」、北にやや離れて「源氏堀」がある。古さは古城、源氏堀、多古城の順と思われる。
昭和五十年一月、城址研究家の県文化財専門委員篠丸頼彦先生の指導を得て現地測量調査を行った。以下報告書の抜粋である。
古城址
北方は多古城の辺りから続く台地でその西南端で東西約三〇メートル、南北約五〇メートルの一画がある。これがいわば主郭とみられるものであろう。これからさらに拡がっていたと思われる城域は東西、南北各八〇メートルの範囲である。西北に古墳のようにも見える小高いところがある。頂上に妙見が祀られている。東・南・西の方は急崖であるが西南には腰曲輪状の一画がある。
この城跡には土塁も堀も見られないが、これは城というよりは館址といったものとみられる。年代的には中世も初期以来のものでなかろうか。高部の南側を館の場所であったとした場合、その東側の部分はその一部としてなんらかに使われたものであるまいか。現況は南北方向に短形に近い緩傾斜地で畑地に利用されている。この地域が館址の一部であったと推定されるのはこの一帯の地形から見てうなずけるものではあるまいか(篠丸)。
源氏堀
台地の北西に占地している。東方は平担な台地であるが土塁で区切っている。北・西・南の方はそれぞれ急崖となっている。この城域の東西と南北の最大は約一〇〇メートルと六〇メートルで塊状である。土塁は東方で最高一・五メートルくらい、北側では〇・五メートルが現況である。北西に一段低いところがあり帯状の台地で腰曲輪に似たものである。西方末端がこの館址の西南端であるが、ここから西方への通路が尾根となっている。
この城址は、古城よりは年代も降ると思われるが、城というよりはやはり中世初期の館とみられる。館址としては北総の数あるそれのなかでもよく旧状を伝えているものであろう。
なお、ゲンジ堀と伝承されているので源氏の文字を一応あてはめたが、その呼称はどういうことから出たものであろうか(篠丸)。
多古城址
『多古由来記』に「……ここに古城台カクライと云う処あり、堀の形城の構い今にこれあり。此古城の由来を詮義するに古書に城主千葉之助子孫三浦入道とあり。……城内は高陽の地にして遠境に三里を見通し、駿州富士山凡五十余里に余れ共、城中二の丸より見る事隣郷の如く、城下には二、三、四里一見の大沼にて、遙かに望めば向うの方には荒井、篠本、吉田辺、または上総地の遠きさかへ一目に、沼中には一島の島村と申す百余軒の民家嶋あり。此大沼城の要害となり。その景色誠に無類の名地也。然る処元禄年中始て此沼水引払い新田と成る。又城に陰城と陽あり、小城なれども陽にして城郭厳しき事なり」とあってよくそのさまを物語っている(調査報告省略)。
城山
かつて多古城址と地続きで東方に突出した台地があった。ここに戦国の末期牛尾胤仲が新城を築いたといわれ、人々は「城山」と呼んだ。
同地は眺望がよく自然の要害の地であった。江戸時代になって多古台と切り離され孤立状となり、切り崩したところを「切通」と名付けた。昭和二年城山北側の崖から大量(約一三〇貫=四九〇キロ)の銅銭が出土した。
現在同地は採土造成されて多古中央保育所敷地となり、西側に低くわずかに当時の続地が残っている。
多古陣屋跡
高野前にある。天正十八年(一五九〇)保科正光の領地となり、やがて寛永十二年(一六三五)松平勝義の所領となってこの地に陣屋を置いた。かつての多古城域の一角であったと思われる。
今の高野前の県道沿いはすなわち陣屋下で、人家はなく通常下馬通りと呼ばれていた。濠はここを南北にのび、木戸谷用水池から水を引いた。陣屋の敷地は約一、三〇〇坪(内五〇〇坪は松杉雑木があった)、地続きに山林約四、六〇〇坪で、表門、中門、裏門があり、濠には朱ぬりの橋が架けてあったという。中間両側の石垣に当時の面影を残している。明治八年ここに小学校を開設した。