文禄二年(一五九三)の『多古村五拾七人名寄帳』によれば大百姓五七人、小百姓五七人、計一一四人で、大百姓のうち一町歩以上の田畑を持った百姓は九人で、小百姓のうち五一人は田を持たず、わずかに一反以下の畑を所有するに過ぎなかった。
その合計面積は田三二町一反三畝一八歩、畑五町八反一畝四歩。小百姓持ちは田九反八畝二〇歩、畑一町二反四畝二二歩で、大小百姓合わせて田三三町一反二畝八歩、畑七町五畝二六歩、田畑合計四〇町一反八畝四歩であった。
村高は『元禄郷帳』で八五五石七斗。『天保郷帳』一、三三四石七斗九升八合。また弘化二年(一八四五)の『関八州取締役控帳』に見られる村高は一、三三四石七斗九升四合、家数二二〇軒で(郡誌)、明治元年の『旧高旧領取調帳』では一、三三五石七斗七升二合となっている。
寛文以降新田が拓かれ、年貢は本高五五%、古新田四〇%、新田三〇%(文政八年)。
農業用水は居射・木戸谷・大原内・堀の尻など数カ所の溜池、耕地中の清水池や無数の溜池、染井堰の流水、栗山川の揚水によった。
住民の多くは農業を生活の基礎としたが、江戸時代なかごろから大工、屋根職をはじめ諸職人・商人・止宿・問屋など営業をするものがでてきた。藩士の住まいは「西屋敷」にあった。この地を今も「お西」と呼んでいる。
名主・組頭・百姓代の村方三役は交替で選ばれ、役人の外に枡取り、定使いがおり(『安永記録』)、村内を高根・本町・仲町・新町・堀の尻・大原内・高野前・居射・切通・広沼の十くるわに分け、これに惣代を置いた(『嘉永二年村日記』)。
安永七年(一七七八)の記録では、家数二八四軒であったが、弘化二年(一八四五)には前記のように二二〇軒と記され、安政五年(一八五八)になると三五七軒となっている。
安永・安政の町内別家数は次のとおりである。
町名 安永 安政
高根 二二 三四
本町 四六 五七
堀の尻 一三 一五
新町 三八 四四
大原内 一八 二〇
仲町 三〇 三三
高野前 三〇 三二
居射 三九 四八
切通 二〇 三二
広沼 二八 三九
新田 三
計 二八四 三五七
明治四十二年の面積と戸数
田 一七八町五反九畝九歩
宅地 二〇町四反五歩
畑 五六町三反一畝二四歩
その他 三五町四反八畝九歩
合計 二九〇町七反九畝一七歩
戸数 三四七
昭和五十九年十一月現在の面積
宅地 四三町九反三畝五歩
田 一三八町四反四畝二二歩
畑 四二町七反七畝一八歩
山林 二九町一反六畝三歩
原野 一町五反六畝二〇歩
池沼 一反八畝二八歩
その他 八町四反九畝二三歩
計 二六四町五反六畝二九歩
昭和五十九年十月現在の世帯数と人口
世帯数 八六八戸
人口 三、二一九人
男一、五九〇人、女一、六二九人