ビューア該当ページ

由緒・縁起

370 ~ 372 / 1100ページ
 『縁起書』によれば同社は寛永中(一六二四~四三)飯笹村から移したという。社殿に祭神の本地牛頭天王像が厨子に納められているが、その側に置かれたいま一つの像は承応四年(一六五五)の作である。台座の墨書に「于時承応四乙未年七月朔日 願主三町之男女敬白 崇敬僧坊実相坊 原妙光寺十六世日遙 七条大仏師法印 於東武作之   」とある。
 また安政三年(一八五六)寄進の戸張りに「三町中 施主居射平山勘兵衛問屋役宇賀村治郎兵衛 世話人本町油屋治郎兵衛 川口清左衛門 中町箱屋縫之助 升屋五郎兵衛 糀屋与左衛門 新町鍋屋喜兵衛 槌屋金右衛門」とある。
 現社殿は明治二十四年の再建(火災)である。境内に三町氏子寄進の手洗いがある。
 明治の『社寺明細帳』には
 
     千葉県管下下総国香取郡多古町多古字本町
                             無格社 八坂神社
  一、祭神 素盞鳴尊
  一、由緒 不詳
  一、社殿 本殿 玉垣
  一、境内 四拾四坪
  一、氏子 百五拾戸
 
 このように記されて、由緒は不詳となっているが、嘉永四年(一八五一)六月、実相寺の寛応によって書かれた縁起書があり、興味深い内容が記されているので、次にその全文を掲載して参考に供したい。
 
     祇園牛頭天王縁起
                                       下総国香取郡多古邑
                                         高根山實相寺誌
 嘗按スルニ牛頭天王鎮座之由ヲ 年序甚タ旧クシテ神像尚莫シ知コト誰ノ作ナルコトヲ矣 土俗伝テ曰ク
元ト是レ本国本郡飯笹邑之鎮守也 寛永中多古本街ニ有リ清右衛門ト云者 竊ニ取テ移シ之ヲ居宅ニ
日ニ感ス神威之新タナルコトヲ 衆亦信仰シテ 禳(はら)ヒ災ヲ致シ福ヲ其ノ移ス崇スル之ヲ也 応シ有ル所以惜イ乎(カナ)莫シ人之能ク伝フル
烏既ニシテ而彼ノ邑聞テ像在スヲ一レ此ニ 将ニ欲シ護シ去テ安-置セント旧地ニ 衆来テ責ム之ヲ 清右衛門等不拒ムコトヲ
唯々トシテ欽諾ス 及テ神ノ還リタマフニ一レ彼レニ疫疾流行合邑少(マレナリ)脱ルヽコト 衆咸ク逼悩ス 一時病ノ者同ク夢ラク
一老翁来リ告テ曰ク 令メヨ神ヲシテ還ラ彼シコニ 勿レ復タ在ラシムル一レ此ニ 郷等カ疾苦ハ為ノ斯ノ事ノ故也 請フ速ヤカニ領悟セヨ
莫レト復タ懐クコト一レ疑ヲ也 覚(サメ)テ皆愕然タリ 家々相ヒ伝ヘテ令ム人ヲシテ送リ来テ再ヒ安セ向キノ処ニ 於テ是ニ乎疾メル者ノ皆起ツ奇ナル哉
彼此偕(トモ)ニ感シテ無シ何ノ故ト云コトヲ 旧跡今猶存セリ于彼ノ地ニ 呼テ為スル天王台ト者ノ是也
清右衛門信喜愈(イヨ/\)進ミ 更ニ割テ処地ニ-建シ神殿ヲ 崇奉依リ旧ニ祭奠無シ廃スルコト 老少呼テ曰フ天王清右衛門ト
尓シヨリ未タ二-百-余-年于玆ニ 遂ニ至レリ一村仰テ為スルニ産宮(ウブスナ)ト也 此ノ地昔ヨリ未タ無シ宗トセ法華ヲ者ノ
故ニ神祭亦タ無シ不ルコト自尓トシテ由ヲ上レ之レニ矣 夫レ法華之王タル于群典ニ 昭々乎トシテ挙テ世無シ不ル知ラ之ヲ
天王ハ乃是レ素盞鳴尊ニシテ其ノ所由テ来ル 恭々乎トシテ 存セリ于国史ニ 烏以テ此ノ経王ヲ崇シ此ノ天王ヲ
而シテ不蒙ラ擁護ヲ者ハ 蓋シ浄心信敬之未タ至也 耳豈竢(マタ)ンヤ把リ短毫ヲ費スコト鄙語
後来当ニ当ヘシ自信-知ス 今也欲シ令メント件之事ヲシテ勿ラ一レ失フコト 卒然トシテ布ク数語ヲ尓(ノミ)
   維時嘉永第四歳次辛亥夏六月
高根山実相寺住寛應謹記