また安政三年(一八五六)寄進の戸張りに「三町中 施主居射平山勘兵衛問屋役宇賀村治郎兵衛 世話人本町油屋治郎兵衛 川口清左衛門 中町箱屋縫之助 升屋五郎兵衛 糀屋与左衛門 新町鍋屋喜兵衛 槌屋金右衛門」とある。
現社殿は明治二十四年の再建(火災)である。境内に三町氏子寄進の手洗いがある。
明治の『社寺明細帳』には
千葉県管下下総国香取郡多古町多古字本町
無格社 八坂神社
一、祭神 素盞鳴尊
一、由緒 不詳
一、社殿 本殿 玉垣
一、境内 四拾四坪
一、氏子 百五拾戸
このように記されて、由緒は不詳となっているが、嘉永四年(一八五一)六月、実相寺の寛応によって書かれた縁起書があり、興味深い内容が記されているので、次にその全文を掲載して参考に供したい。
祇園牛頭天王縁起
下総国香取郡多古邑
高根山實相寺誌
嘗按スルニ二牛頭天王鎮座之由ヲ一 年序甚タ旧クシテ神像尚莫シレ知コト二誰ノ作ナルコトヲ一矣 土俗伝テ曰ク
元ト是レ本国本郡飯笹邑之鎮守也 寛永中多古本街ニ有リ二清右衛門ト云者一 竊ニ取テ移シ二之ヲ居宅ニ一
日ニ感ス二神威之新タナルコトヲ一 衆亦信仰シテ 禳(はら)ヒレ災ヲ致シレ福ヲ其ノ移ス二崇スル之ヲ一也 応シレ有ル二所以一惜イ乎(カナ)莫シ二人之能ク伝フル一
烏既ニシテ而彼ノ邑聞テ二像在スヲ一レ此ニ 将ニ欲シ三護シ去テ安二-置セント旧地ニ一 衆来テ責ムレ之ヲ 清右衛門等不レ得レ拒ムコトヲ
唯々トシテ欽諾ス 及テ二神ノ還リタマフニ一レ彼レニ疫疾流行合邑少(マレナリ)レ脱ルヽコト 衆咸ク逼悩ス 一時病ノ者同ク夢ラク
一老翁来リ告テ曰ク 令メヨ三神ヲシテ還ラ二彼シコニ一 勿レ二復タ在ラシムル一レ此ニ 郷等カ疾苦ハ為ノ二斯ノ事ノ一故也 請フ速ヤカニ領悟セヨ
莫レト二復タ懐クコト一レ疑ヲ也 覚(サメ)テ皆愕然タリ 家々相ヒ伝ヘテ令ム三人ヲシテ送リ来テ再ヒ安セ二向キノ処ニ一 於テレ是ニ乎疾メル者ノ皆起ツ奇ナル哉
彼此偕(トモ)ニ感シテ無シレ問二何ノ故ト云コトヲ一 旧跡今猶存セリ二于彼ノ地ニ一 呼テ為スル二天王台ト一者ノ是也
清右衛門信喜愈(イヨ/\)進ミ 更ニ割テ二処地ニ一造二-建シ神殿ヲ一 崇奉依リレ旧ニ祭奠無シレ廃スルコト 老少呼テ曰フ二天王清右衛門ト一
尓シヨリ未タ二二-百-余-年于玆ニ一 遂ニ至レリ三一村仰テ為スルニ二産宮(ウブスナ)ト一也 此ノ地昔ヨリ未タ無シ下不レ宗トセ二法華ヲ一者ノ上
故ニ神祭亦タ無シレ不ルコト下自尓トシテ由ヲ上レ之レニ矣 夫レ法華之王タル二于群典ニ一 昭々乎トシテ挙テレ世無シレ不ルレ知ラレ之ヲ
天王ハ乃是レ素盞鳴尊ニシテ其ノ所二由テ来ル一 恭々乎トシテ 存セリ二于国史ニ一 烏以テ二此ノ経王ヲ一崇シ二此ノ天王ヲ一
而シテ不レ蒙ラ二擁護ヲ一者ハ 蓋シ浄心信敬之未タレ至也 耳豈竢(マタ)ンヤ下把リ二短毫ヲ一費スコト中鄙語上乎
後来当ニ当ヘシ二自信-知ス一 今也欲シレ令メント二件之事ヲシテ勿ラ一レ失フコト 卒然トシテ布ク二数語ヲ一尓(ノミ)
維時嘉永第四歳次辛亥夏六月
高根山実相寺住寛應謹記