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寺域の小堂・建造物・寺宝

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 当寺祖師堂に安置する日蓮座像については、次のような説明がなされている。
 
 妙光寺の日蓮座像は俗に「ひげの祖師」と呼ばれて、従来から庶民の信仰を集めてきた。等身大で寄木、玉眼、裸形。その容姿には剛快な東国武士の面影を偲ばせるものがある。現在は衣を着せて、春秋の衣替えが奉仕されている。室町時代の作。
(昭和四十四年五月日蓮聖人展記録)


ひげの祖師像

 また檀家所蔵の祖師像木版掛軸には「抑吾山之祖師尊像者 身延 池上一本(ママ)三体 中老日法聖人御作之形像 元祖大〓(菩薩)御髭被移自御開眼之霊像御影也 多古村染井妙印山妙光寺廿五世日観」とある。
 像の法量は、坐高二尺七寸、膝張二尺三寸七分、肩幅一尺五寸二分、肘張一尺九寸八分、坐奥一尺五寸二分、頭長一尺三分、面幅五寸五分、頭奥七寸五分で、材料は良質の桧材で長二尺七寸、幅一尺三分、厚さ九寸三分の物を前後に割って主部とし、両上肢をはき付け、組んだ下肢は長二尺三寸七分、幅七寸七分、厚さ四寸八分を寄せている。坐と胴の三角形の欠部も補い上肢も肘で寄せている。頭部はさらに顔面を耳前で割り寄せている。是は玉眼の為である。腹部も下腹の張り出しの部分は寄せている。主部の前後の割りは頭部では割筋は平均しているが、腰部に来て左から右へと傾きそれで斜面をなしている。此主部の前後の内刳りに一杯の墨書がある(大川逞一氏の報告『房総の郷土史』)。
 胎内銘(墨書)は省略するが、像は永和二年(一三七六)二月二十五日、大檀那平氏女図書の母と円城寺図書左衛門尉源胤朝の造立とある。
 円城寺氏は千葉氏の一族であり、胤朝は多古を領した胤氏の子に当たるようである(中山法華経寺文書、応安五年(一三七二)源胤朝安堵奉書案)。千葉氏は元来平氏であり胤朝が源を名乗った理由は不詳である。
 鰐口(昭和五十一年町指定有形文化財)は多古城主牛尾能登守胤仲が寄進したもので、「奉寄進小原多胡妙印山妙光寺大旦那牛尾右近大夫胤仲敬白 天正五年丁丑夘月六日 当寺九代住僧沙門法薗院日親」の刻銘がある。青銅、径五三センチで、胤仲が娘の病快癒祈願のため銅の燈籠とともに寄進したといわれる(『多古由来記』)が、燈籠は不明である。
 境内に摩滅、破損した数基の下総式題目板碑がある。その一基は応安五年(一三七二)十一月の建立である。
 山門入口右に嘉永二年(一八四九)正月建立の大常夜燈がある。願主高野前新右衛門・加茂村平左衛門・水戸村治右衛門の刻名がある。台石に二二四名の納金額および氏名が刻まれている。
 左側には宝暦九年(一七五九)建立の大題目塔がある。塔には「一木三躰祖師大菩薩安置」とあり、「本願主浅野与市 稲垣三左衛門 稲垣藤兵衛 佐藤助右衛門 川口与兵衛 身延講中」と刻されている。
 境内奥に延宝四年(一六七六)三月、道俗男女が建立した宝篋印塔、安永七年(一七七八)十月建立の五百遠忌、明治十四年十月建立の六百遠忌題目塔がある。
 また石段上に平山勘兵衛寄進の常夜燈一対嘉永五年(一八五二)、手洗い寛政二年(一七九〇)、同水屋嘉永七年(一八五四)、浄行菩薩石像があり、宝庫前に摩利支天、太子碑がある。
 同寺の鐘楼はかつて境内西側の中段にあった。梵鐘には「宝暦十三癸未年(一七六三)仲秋 二十九世智境院日照鋳工江戸神田住小幡内匠藤原勝行作 本願人船越五左衛門発起願主惣檀中」と刻まれていたが、第二次大戦中に供出された。現在の鐘楼および梵鐘は昭和五十四年の建立鋳造である。
 そして、同寺宝として次の曼荼羅本尊がある。
 
  日祐 延文 二年(一三五七) 卯月
  日尊 永和 元年(一三七五) 五月
  日〓 応永十六年(一四〇九) 八月
  日親 文明十六年(一四八四) 正月
  日俒 元亀 三年(一五七二) 八月
  日俒 天正 五年(一五七七) 五月
  日俒 天正 九年(一五八一) 九月
  日珖 文禄 三年(一五九四)十一月
  日通 慶長 六年(一六〇一) 九月

日祐曼荼羅

 同寺における年中行事として月の二十八日の「廿八日講」、二月三日の「節分会」、四月三日の「千部会」、六月と十月一日の「御衣更」、八月十六日の「施餓鬼」、十月十二日の「御難会」、十一月十二日の「御会式」などがあり、同宗他寺の例外ではないが、特に四月三日の千部会(せんぶえ)は盛会である。