ビューア該当ページ

路傍の小祠・小宮・板碑など

382 ~ 389 / 1100ページ
 高野前天神社 多古第一小学校の上にある。『多古由来記』に「寛永中(一六二四~四三)多古領主になった松平勝義は菅原の家筋なので当村へ天満天神を建立した。御神体は武田信玄より伝わった菅相丞御自筆の天神である。例年正月二十五日奉謝祭礼がある」とある。現在安置されている像は正徳五年(一七一五)の造立である。
 同社は同所稲荷社と同一社屋に祀られており、「天満大自在天神」の扁額、また社前に天明五年(一七八五)寄進の手洗いがある。
 切通天神社 字城山下二四五四番地がその所在地で、切通城山の裾にある。創建は詳かでない。境内に嘉永三年(一八五〇)平山勘兵衛・勝又与左衛門寄進の手洗いがある。
 同社の神像はかつて盗難にあったが、神崎川岸で盗人が捕えられ、像は無事に戻ったとの話がある。
 高野前稲荷社 多古第一小学校の上にある。『多古由来記』に「御信仰の氏神正一位稲荷大明神を御陣屋の森へ勧請した」とある。領主松平勝義が天満天神と同所に祀ったようである。同社は総本社京都伏見稲荷の分祀といわれ、社内「正一位稲荷大明神」の扁額は明和五年(一七六八)多古藩六代の藩主勝全の寄進である。
 大原内妙見 かつて法福寺南の高台にあった。創建は不詳である。昭和三十八年堂宇の廃壊により像を妙光寺に移した。旧地(字大原内三八七二)入口石段下に文化八年(一八一一)建立の門碑があり、碑の表に「是北妙見大菩薩」、右「古昌山嗣法体順日道代」、左に「文化八年辛未八月」、台石に「法福寺 世話人当所若者 同佐藤庄右衛門 同惣檀中」とあり、裏面には「余本姓佐藤士家下総州多胡郷以耕桑為業 余不喜農年十八遊於江都 徒従〓父阿部好繁先生学医三年好繁先生没又学於幕府医官河野松庵先生九年 先生字余曰松甫後為上田侯侍医 当栄府君養子冐姓坂巻氏 余索信妙見大菩薩 居常祈禳屡有応験 今玆建碑聊寓報賽之意云信州上田藩坂巻豊明建」と刻まれている。
 また同所に宝暦十一年(一七六一)寄進の手洗いがあり、かつて境内にあった安永七年(一七七八)江戸大芝居根元、吹屋町市村座芝居中、願主村田治兵衛奉納の石燈籠は、昭和五十二年池端弁財天前に移建した。大正五年多古馬車連が境内に建立した馬頭観世音碑は、妙光寺に移されている。
 池の端(字大原内三八六〇番地)に建つ大燈籠は嘉永六年(一八五三)村中の寄進で「北辰御神燈 胡昌山二十四世日由 施主面々現安後喜 癸丑嘉永六年霜月日 胡昌山」とあり、建立者として多古藩主をはじめ世話人・願主・石工、二〇〇人近い人名、寄付金額が刻まれている。
 この妙見像は、多古付近を領し多古に居城した千葉一族の守護神として祀られたもので、「むかし九州から背負ってきた」との伝説がある。かつて千田庄は九州千葉氏の所領であったことが伝説とのかかわりを思わせる。
 昭和五十年秋、像の修理をした八日市場市の大川逞一氏は『房総の郷土史』に次のように報告している。
 
 同像は一見して古様である。彫刻法として可成衣襞の表現は柔かく写実的に整美されて居るが、鎌倉初頭の如き清鮮俊逸の趣きは無い。全体像は概念的な構成であり、細部も部分としてではなく、工作的に細かに操作されている。
 獅噛の腕飾り其の他の製作も漆下地の盛り上げも一応出来て居る。其上濃密な暈繝彩色に繊金が置かれて居るのが所々に残って、昔の栄華を物語る様に光って居る。
 千葉氏の守護神との遺像として本県の現下に於ては、最も古く(鎌倉末期より下らない)製作も本格的工法である。
 像は延宝八庚申(一六八〇)閏八月大吉祥日、正東山日本講寺沙門周円によって再修された。
 妙見菩薩倚像法量は総丈二尺一寸五分、座高一尺六守五分、膝幅一尺三寸八分、頭長五寸五分、面幅三寸八分。鎌倉期の手堅い手法で、寄木玉眼漆下地、暈繝彩色に繊金を置いた手を尽した荘厳である(抜粋)。
 
 また「寛文六年(一六六六) 越前住下坂国清作 目くぎ穴二 長三六センチ」の神剣が妙光寺に所蔵されている。
 妙見像は昭和五十二年千葉県有形文化財として指定をうけた。
 お西妙見 多古城域内七妙見の一社と思われ、広沼地先通称「お西」と呼ばれる多古城址の一角(字多古台二二四九)にある。創建は不詳。江戸時代多古領主松平氏の崇敬が厚かった。社屋内に四枚の修覆の板書きがある。
 板書の一は「地頭松平甲斐守勝以 名代服部与五左衛門重賀 奉行   次郎政吉」とある。
 なお、この甲斐守勝以は延宝八年(一六八〇)家督を継いで藩主となった。
 板書の二には「南無妙見大士 天下太平国土安穏 松平氏武運栄昌 宝暦五乙亥(一七五五)十二月大吉辰 御普請奉行山室十郎右衛門 御名代小幡弥右衛門 下役鈴木十右衛門 大工棟梁多古邑伝治郎」とある。
 板書の三には「明治六年癸酉第九月二十三日吉辰 妙見社地 間口十八軒 奥行台迠道幅二軒 別当開眼主妙薬寺日正大工島村伊兵衛 神主矢城平右衛門」。
 板書の四は「妙印山四十五世日励 昭和十四年三月十九日新築遷座 祈願主大矢新治 大工中村押田信之助」。
 また境内に二基の石宮があり、一つは文政七年(一八二四)の建立である。
 古城妙見 字多古台で、通称古城といわれるところにある。七妙見の一社と思われる。神像は昭和十七年ごろ盗まれたという。
 高根妙見 字浅間台二八三七ノ二番地に寛政八年(一七九六)九月建立の妙見石宮がある。同所に同年建立の八幡宮と神名不明の石宮がある。
 大原内弁天宮 字大原内三八六〇番地の池の端にある。『多古由来記』に「元禄中(一六八八~一七〇三)弁財天女神大坂より当村へ移し、景色よろしき用水池へ勧請の由、その節豊前守勝以様武運御誓願の由云々」とある。勝以は弁財天勧請後の正徳三年(一七一三)三千石加増され大名に列した。
 同社内「弁才天」の扁額に「下総国多胡領主源勝全 安永三年(一七七四)仲冬下旬寄進之」とある。
 また安政の記録に「文政年中(一八一八~二九)領主が(籤)と申すものを始め、金子を集め弁財天の雨家を造り、寄付米を出しこの時より奉謝を始め候」とある。
 居射弁天宮 字居射二五〇八ノ四番地の池端にある。弁天像の台座に「総劦多胡染井妙光寺二十二世日得 維時元禄第十六癸未(一七〇三)七月二十五日 施主稲垣三左衛門尉 為現当二世悉己成辨」と墨書されている。
 切通弁天 字東下一五三〇番地の島堤み降り口にある。石宮があるが摩滅して刻字は読めない。
 鬼子母神 当地区にはいくつかある。
 高根鬼子母神は親社権現の境内にある。明治二十二年町内女人中によって祀られた。
 本町鬼子母神は八坂神社境内にある。女おびしゃの当番申し送りの御影掛軸に「享保十三年(一七二八)本町女人中」とあり、御影は常法筆とある。
 高野前鬼子母神は大宮大神東裏にある。石宮は延享元年(一七四四)五月吉日の建立である。同神の女おびしゃは大原内・新町・堀の尻・仲町の女人たちによって行われる。
 切通鬼子母神は天神社の境内にある。
 広沼鬼子母神は字多古台二二八四ノ一番地で、通称古城台にある。棟札に「文政五年(一八二二)正月大吉日下総州香取郡多胡村大矢氏」とある。
 道祖神 当地区にはいくつかの道祖神がある。
 高根道祖神は字高根二七九八番地で、仕置場墓地下にある。安永二年癸巳(一七七三)三月吉日、川口与兵衛奉納の石宮の外に小石宮が多数。また昭和五年山川屋寄進の手洗いがある。
 居合道祖神は字居合谷三二六〇ノ七番地で、かつて高校西側の旧道にあったが、昭和のはじめ県道敷設のとき現在地に移した。寛延三庚午年(一七五〇)伊藤三郎右衛門、宝暦七丁丑天(一七五七)伊藤七良兵衛奉納の石宮がある。また外に小石宮多数と手洗いがある。
 大原内道祖神は字木ノ下三七六三番地で大原内墓地入口三差路にある。安政四丁巳(一八五七)二月、大原内中奉納の石宮がある。
 また同所には明治二十年に大原内町内中が建立した道標があり、発起人飯田作左衛門外三六名の氏名が刻されている。外に馬頭観音の石宮がある。
 広沼道祖神は字広沼二三七五ノ一番地の旧道から県道への出口のところにある。安永九年(一七八〇)の石宮が雨屋の中にある。昭和五十一年に社屋を改修した。
 なお、同区には本尊と称する木箱に納められた石宮があるが、これは四国から背負ってきたものといわれている。
 そして、同所にはかつて三本の大松があり、これにまつわる次のような多古藩主の槍の伝説がある。
 このうちの一本の松は、人の通行には支障がなかったが、道にかぶさるように幹が曲っていた。あるとき多古の殿様がそこを通ることになったが、行列の先頭を行く槍の穂先がこの松に触れるおそれがあるので、村人たちはこれを伐ることにした。
 翌朝、道具を持って集まったところ、路上に曲っていた松が一夜のうちに伸びて、槍がつかえないようになっていた。これはひとえに道祖神の神威によるものであるとして、ますますその信仰を深め、この話が村から村へと伝わって有名になった、ということである。
 また二基の板碑があるが、これは近くの浄妙寺(集会所)跡にあったもので、すでに摩滅している。下総式の種子と題目板碑である。
 宮前道祖神は多古台に至る三差路にある。宝暦五年(一七五五)の石宮(破損)は字宮前二二一一番地に、天保十四年(一八四三)土屋勘兵衛が奉納した石宮は字宮前二一九四ノ二番地にある。
 馬頭観音 戸出(とで)馬頭観音はもと町道側にあったが本込墓地入口に移した。嘉永三年(一八五〇)の石宮である。
 広沼馬頭観音は広沼はずれの旧道側にある。寛政二年庚戌(一七九〇)建立の碑があり「奉祈念馬頭観世音 願主当村太郎左衛門 伯楽船越村霞 馬」とある。
 また、通称飯倉台墓地に至る右側中段に碑がある。
 八田馬頭観音はかつて上八田北側の農道側にあったが、八田バイパスの新設によって現在は妙光寺に移されている。観音石像は天保十三年(一八四二)中町・新町谷中の建立である。
 新田七面大明神 字桜宮三五四五番地で、もと西側山頂にあったが下県道に下ろした。石宮に「弘化二巳年(一八四五)六月十九日建立 本家大矢吉左衛門」と刻してある。八田新田にあらたに居住した者の氏神として祀ったものである。当時の新居住者は、市左衛門、治兵衛、市右衛門で、いずれも大矢姓である。
 広沼七面山 字多古台二二八四ノ一番地にあり、通称古城といわれるところである。明治二十七年九月建立の石宮があって、近くには天保五年(一八三四)の三十番神石宮、昭和四年の古峰神社の石宮がある。
 飯倉台板碑 字小谷二〇二一番地の広沼墓地にある下総板碑で、高八八・幅四九センチ。永徳三年(一三八三)二月八日の建立である。天蓋・題目・蓮座があり、両側に「多宝如来 釈迦如来 上行無遍行〓 浄行安立行〓 孝子敬白 右志者為母妙性十三廻也」の銘文がある。
 高根宝篋印塔 字高根二七九七番地で、高根の仕置場墓地にある。向かって右に約四メートル、左に約二メートルの二基の宝篋印塔があり、大は承応二年(一六五三)四月、奉唱題目十万部成就を記念して建立された。「為開眼建之以蔵逆修」の刻字が読める。
 小は、「奉唱題目五千部   延宝二歳(一六七四)卯月 下総国多胡村本町 本願人   円能寺   実相寺  」の刻字が判読できるが摩滅が甚だしい。
 各種石碑 いくつかの石碑があるが、本込題目碑は字本込三〇〇八番地で本込火葬場入口にある。明和五年(一七六八)の建立である。
 日蓮五百遠忌碑はすすき谷火葬場にある。安永九年(一七八〇)の建立である。
 大原内唱修供養碑はまでいど墓地にある。文化十一年(一八一四)と正徳五年(一七一五)建立の二基があり、題目唱修供養碑である。
 飯倉台遠忌碑は字小谷二〇二一番地の墓地内にある。宝暦二年(一七五二)の建立で、日樹・日奥の百五十遠忌、日述百遠忌碑である。