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村の支配者

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 島村の存在を広く世に知らしめたのは、有名な史書『鎌倉大草紙』であろう。
 同書は、天授五年(一三七九)から文明十一年(一四七九)までの、一〇〇年間の関東地方の戦乱のようすを綴ったもので、千葉宗家の胤直・胤宣父子が氏族間の内紛のため、多古・島両城で自刃したときの模様が詳細に書かれている。これについては通史中世後期のところで既述されているので、ここでは重複を避けるが、享徳のころ(一四五二-五四)には、千葉氏宗家の当主が最後の拠りどころとした城郭があったことは事実である。しかし、いつごろ誰の手によって築城され、落城まで誰が守っていたのかなどについては不明である。
 先人の郷土史研究者は、南北朝で争っていた建武の時代、千田庄を領地としていた胤貞一族によって築かれたであろう、とする説をとっている。昭和二十三年六月に、城跡と伝えられる地帯の東端から採土したとき、井戸跡と思われる土の変色した部分も発見され、同時に発掘された人骨を字二ノ台の墓地に葬り、のちに「千葉家勇士之墓」と刻んだ碑が立てられた。
 これらのことから考えると、十二世紀には、すでに有力な食糧生産地帯であり、それがゆえに、是非とも守らなければならない戦略拠点でもあったのであろう。そして、千葉胤直が島城に拠って敗滅の後も、領主・支配者の推移は不明確である。

島城址

 安藤氏による統治
 島村の支配者が定まり、資料の点からみてもほぼ明らかになるのは、徳川氏が関東へ入ってからのことである。
 天正十八年(一五九〇)に多古藩一万石・保科家の支配下に入り、慶長五年(一六〇〇)同家が信濃国(長野県)高遠へ移ると、島村は多古藩領を離れて旗本安藤家の知行地となった。そしてその支配は明治に至るまで続くのであるが、ここに同家の概要を述べておこう。
 徳川氏が松平を姓として、三河国(愛知県)の郷士であったころからの家臣であった安藤次右衛門定次は、永禄六年(一五六三)一向専修を信じて徳川氏に叛いたが、後に赦され、慶長五年(一六〇〇)会津上杉家との戦いのとき手薄になった伏見城を石田三成勢に包囲され、この籠城戦で討死する。
 次の次右衛門正次は、天正六年(一五七八)の武田勝頼との戦いが初陣で、度々の軍功によって、同十九年(一五九一)五月相模国(神奈川県)高座・鎌倉の二郡内で四百石の知行地を賜わった。関ケ原の戦が終わった翌年の慶長六年(一六〇一)下総国香取郡内で千百石を加増されるが、おそらく、このときに島村は安藤家の知行地となったものと思われる。
 同十九年(一六一四)大坂冬の陣の後、大坂城の石垣の取り払い、外堀埋立の奉行となり、その功績によって武蔵国(東京都)足立・多摩二郡内で五百石を加増され、すべて二千石となった。
 嫡子の次右衛門正珍(よし)は、鎗奉行などを勤めて、寛永十年(一六三三)、甲斐国(山梨県)八代郡内に五百石加増され、私墾田とあわせて、総高二千五百四十石を知行した。
 孫の治右衛門定房は御徒の頭となり、宝永二年(一七〇五)に甲斐国の知行地を武蔵国(埼玉県)比企・入間・高麗の三郡内に移され、のち御旗奉行となり、江戸の早稲田に自ら開基となって龍善寺を創り、菩提寺としている。
 次右衛門正甫(よし)(定房の孫)は、御使番などを勤め、宝暦十三年(一七六三)には武蔵国入間郡の知行地を下総国香取郡内に移され、以降、明治に至るまで村を治めた。島村の他に安藤家が知行地とした村は、郡内では丁子・三ノ分目・小川・東台・水戸の村々である。
 安藤家が、島村から年貢として取り立てた明細は、次のようになっている。
 
        申御年貢御勘定目録
   一、高五百八拾壱石壱斗六升八合四勺九才 嶋村高辻
      内七石六斗七升弐合九勺九才
       享保廿卯年吟味之上出高
    此訳
    高百九石五斗三升四勺八才  畑方高辻
    此町歩
    拾八町七反六畝三歩     新坪新畑共ニ
     内弐斗弐才        永荒高分
      壱石七斗        妙光寺免許
      三斗三合        御蔵屋敷分
     畑方取り弐ツ八分
    高四百七拾壱石六斗三升八合壱才 田方
     此町歩
    本田三拾七町六反三畝壱歩
     内三反歩 妙光寺免許並ニ申御改
          新坪成永荒新々田起キ帰ル分
      五反九畝拾四歩  堰之内永荒
      三反壱畝拾六歩  同所浚荒分
      八畝歩      所々永荒分
      壱町三反拾六歩  水道砂押井土用場
      弐反八畝廿五歩   当荒ニ引
    拾八町四反三畝拾歩
     内四反八畝拾壱歩   堰之内浚荒
      三反廿歩      同所永荒
      三反八畝九歩    水道堤用場ニ引
      壱町弐反五畝廿歩  当荒分
    拾六町七反壱畝拾九歩  前々開田
     内弐反歩       妙見領分
      四反廿九歩     亥荒分
      八畝廿三歩     水道用場ニ引
      五反六畝廿三歩   当阿連(あれ)ニ引
    拾四町弐反弐畝九歩   北谷開田
     内壱反七畝歩     八幡領分
      弐畝拾壱歩     水道用場
      壱反七歩      当阿連ニ引
    五町三畝廿弐歩     南谷開田
     内三反九歩      役田ニ引
      四歩        用場ニ引
     右田畑御取箇
     米九百表       御定免御上納辻
     米弐表五合      御奉公人下り未進分
    弐口
    合米九百弐俵五合    御上納分
     此払
    米五百表        御用金元利代
     尤金子百廿五両    相場金拾両ニ四拾表替へ
    米廿表九升七合七勺   申六月差上候 御用金元利分
     尤本金四両弐分利金弐分弐百六拾八文元利合テ、金五両弐百六拾八文、相場右同断銭四貫四百文替
    米拾八表弐斗七升    大豆三拾七表壱斗四升 代米大豆弐升ニ米壱升替
    米三拾五表       御奉公人せおい七人分
    米五拾弐表弐斗     夏成金拾弐両弐分之代米拾両ニ弐表延積
    米弐斗五升       胡摩代米
    米弐斗弐升       小荷物舟賃
    米弐表八合八勺四才   御節搗人足扶持方こやし土取跡畑御年貢分共
    米弐表弐斗四升五合八勺 大豆舟賃分
    米三表         名(主)給被下候分
    米八表         大工両人作料分
     相場前書同断金弐両分也
   払合
    米六百四拾三表九升弐合三勺四才
   残而
    米弐百五拾八表三斗壱升弐合六勺六才
    内
    米拾八表四升五合八勺八才 舟賃分引
   猶残而
    米弐百四拾表弐斗六升六合七勺八才 江戸着
       七月より十二月迠ニ江戸着
    大豆三拾七俵壱斗四升   八月上納
    山銭鐚壱貫百四拾八文   酉正月上納
      宝暦三酉年(一七五三)三月日
                                       名主 佐兵衛
       御屋鋪
        御役人衆中様
 
 以上が、宝暦二年(一七五二)の年貢の内訳であるが、安藤家治政の特色の一つに自費開墾事業がある。前知行地の甲斐国八代郡内でも行ったという記録があるが、この時代の開墾には、二つの方法があったようである。
 国営事業的な方法としては、関東郡代が計画し、資金を出して行う方法で、これは、三年間の年貢免除期間が過ぎると、その地が、何人かの旗本の知行地であっても、関東郡代が年貢を徴収して、徳川家の直接収入とした。
 旗本が自分の知行地内を、自から計画し資金を出して開墾した場合は、その年貢は旗本の収入となる。しかし、大名家とちがって禄高の少ない旗本では、計画立案の技術と、資金を出せる家は少なかった。安藤家は自費開墾を行ったために、前出のように、年貢は段々と多くなっている。
 この他に、農民が自力で開墾した場合は、年貢対象外の耕地として、農民の利益になっていたが、これは違法な行いであった。
 安藤家は、開墾事業だけでなく、その他の面でも仁政を行ったようで、農民一同の謝恩の意志は、安藤家が村に対して支配権を失った後に表された。慶応四年十一月になって、世帯主全員が署名捺印した上で決議したことを記した次の一文がある。
 
   旧地頭献金議定書
   御請申議定一札之事
 今般御殿様御儀、御知行所一般御上地ニ相成、御旧君徳川様駿府表江御在城ニ相成候上者、御旧臣之儀ニ付、是非とも御供可成御思召被為在御座候処、乍恐天下擾乱之末、御同所も未タ動静無覚束、旁々以一ト先元知行所小川邨江御帰農被為遊御座候中、御条俚茂相立候上ハ、専御勤仕被為遊候御思召ニ御座候。
 依而者於村々も、実ニ右様大事件之折柄、只々傍観実情反覆罷在候様にてハ不相済義ニ付、邨々一統相談之上、年来之奉報御恩沢度心事ニ付、夫々村高割献金備江置利分差上候様、衆議一決いたし候。
 依之当村之儀も一同集評之上、金百両備へ置、年々壱割之利分上納可仕向決評いたし候処相違無之、然上者何時成とも、元御殿様何れ江哉御出勤御入用之節者、前条無相違村方高割ヲ以無違変献納可仕候。為後日之一同得心、議定致連印置候処左之通り
   慶応四辰年十一月日
                                       (全世帯主連名印省略)
 右者先般被極置候得共、御一新已来役名相更り候ニ付、尚今般議定之通り改致、奥印置候処如件
                                    庄屋 宇井又右衛門 印
                                    組頭 戸村彌兵衛  印
                                    〃  戸村藤右衛門 印
                                    〃  宇井市之丞  印
                                    什長 郡司勘兵衛  印
                                    〃  星野嘉平次  印
                                    〃  戸村縫之丞  印
                                    〃  越川伊右衛門 印
                                    〃  宇井市郎兵衛 印
                                    〃  郡司勘右衛門 印
                                    〃  郡司佐兵衛  印
                                    〃  戸邨藤右衛門 印
                                    〃  川島吉右衛門 印
                                    〃  戸邨縫右衛門 印
                                    〃  郡司茂兵衛  印
 
 すなわち、旧地頭の恩に報いるため金一〇〇両の基金を備え、毎年一割の利子分を上納しようというものである。このような献金のしかたは他にあまり例を見ることがなく、領民の心情のほどがしのばれるものといえよう。