文政十二年(一八二九)の『村明細帳』によると、鎮守は四社あって、うち一社は船越村の高皇産霊大神であると記されているが、社(やしろ)についての伝承や記録はほとんどない。
明治三十五年三月十七日付の、社掌推薦指令には、塙台・八幡社、中通・星宮社、西ノ内・天満社の三社について、担当神主を推薦するように命ぜられているのに、これ以前の同十七年八月七日付で、星宮神社取崩願書があったり、同四十一年十月付で、八幡社に合祀願いが出されたりしている。このように神社の存続について揺れ動いてみえるのは次に掲げる区有文書の社合祀の政府命令に対する形式的な書類であって、実際には動かなかったのではないかと思われる。
乙第三百拾八号 区長
戸長
管内山理或ハ、路傍ニ散在セル神祠仏堂祠ハ、山野祠・塞神祠ノ類、堂・地蔵堂・辻堂ノ類ノ矮陋ニシテ一般社寺ニ比シ難ク、且平素監守者無之向者、総テ最寄社寺イ無洩合併、又移転為致候上者、其旨来明治十年二月十五日限可届出候。
尤人民信仰ヲ以更ニ受持之神官僧侶相定メ、永続方法ヲ相定メ致置度分ハ、其旨詳細可願出旨区内イ無洩可相達、此段相達候事。
但神祠仏堂最寄社寺イ合併、又ハ移転致候分ト雖モ、神社寺院明細帳イ記載差出有之候者、処分方可伺出候事
明治九年十二月廿五日