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妙福寺

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 現在その所在を知ることはできないが、正覚寺の文書に、由緒の一端を伝える次の一文が残されている。
 千葉胤貞の子日胤が創立し、その没後、南中妙光寺と合併するが、日淳の時代に再び分かれて天文三年(一五三四)に一山として独立したようである。原文は次のとおりである。
 
 嶋妙福寺由来之事。然日胤と申者千田殿之御一類尓(に)て、木原郷ニ御座候ヲ、然処千田殿依有御受法日胤も御受法候而、三戸(水戸)郷を旦那ニ在嶋ニ造立、寺家を従中山日祐聖人三杖本尊御申候而、繁昌有事其陰無之処ニ、千田殿御 亡之後、中村唐竹林ニ妙光寺者御座候ヲ、然ニ千田殿ニ離御申候而中村を引退、嶋妙福寺を借用候而先ニ御在寺候。
 然処其次年之正月一日ニ妙福寺之日胤被成御死去、遺跡無御座候。彼妙光寺妙福寺一寺ニ成  、弟子旦那悉妙光寺へ就申候。然処日淳其末弟ニ候間、祐師之御本尊を妙光寺へ乞申、遺跡を立申度由申候処ニ、此御本尊御分失  無御座候由仰候間、不及力候処ニ、日淳学問之時分、笠井小松川之左京殿へ遊山ニ罷越候折節、人ニ申事ニ、祐師之御本尊売可申由告来候間、不思儀ニ存、日淳拝ミ申候へ者、遺所之御本尊尓て御座候間、仏天之御奐慮見ハ宿縁存、五百文ニ買取軈而日靚上人ニ如同三杖本尊申請、妙覚山妙福寺と申授被書  被下候処ニ、戊子正月四日夜焼失出  世物法物無残焼失申候。其時彼靚師之御本尊ハ失申候。然祐師之御本尊ハ御残候間、当住日俒聖人之御本尊を申請妙行坊日昌ニ付属申候実也。
 日淳先祖始  妙福寺之旦那数多ニ候ヘ共、一人も付不申候者、凡天之御守護分新旦那日淳日昌取出  、妙福寺建立仕候。如此有古例寺  候。為後々記置申仍付属状如件
                                   権律師日淳
                                         妙行坊日昌示之
   天文三年甲午(一五三四)二月三日
 
 その他、蓮妙寺・妙賢寺・広宣寺・妙栄寺の四カ寺については、寺名のみが残り、明治の村絵図におおよそ所在を示すだけで、詳細は不明である。