金瘡膏は打身、くじき、切傷、あかぎれなど。北斗香は目の万能薬として、広く周辺の人々に用いられて来た。
この二剤が郡司家の家伝薬で、その製法は一子相伝門外不出であり、調合書きは相続者だけに伝えられ、家から外には持ち出せなかったという。販路は遠近一一カ国に及んだといわれ、現在でも金瘡膏は作られている。
阿蘭陀金瘡膏版木
この由来について郡司家系図には、次のように記されている。
初代 郡司新次郎
牛尾千葉胤仲公の家臣たりし由、同氏亡るにおよび農に帰し、島村の里に住居す。当家創立の元祖なり。
幼 (千葉)胤仲公より同人江の御消息壱通有之、時天正十九年六月九日とあり。
(中略)
十一代 郡司勘右衛門
同村郡司佐兵衛の次男、素(もとより)親戚なるを以、同家の養子となる。同家は薄 困なる故、実家郡司佐兵衛方にて 製造せる金瘡膏北斗香の二剤を持参し、是を製造し普く諸方に発売す。其地方挙て計ふるに下総 上総 武蔵 相模 伊豆 駿河 甲斐 尾張 信濃 美濃 越後、合拾壱ケ国。
遠路の地方寒暑をも厭わず行商し、得意数百戸を設く。其功最も厚し。
実弟春吉、自文化五辰年(一八〇八)至仝十四年(一八一七)迠、拾ケ年間召使ひ同居致させ、其勉強の功労を賞し、文化十四年中、地処及金瘡膏北斗香の株を譲与し、新ニ分地し郡司勘兵衛と改、常陸 下野 陸奥の三ケ国を発売なさしむ。
実に中興の再興主売薬の元祖なり。安政六年三月廿四日没。行年八十一歳。(以下省略)