村民が生活の基盤とする耕地のほとんどが水田で、単作地であった当村にとって、水利の問題は特に重要なことであった。
村文書の中には、島村のことばかりではなく、近隣の村々で起こった水争い関係の文書が、幾通も保管されている。村人にとって、水争いは他人ごとではなく、いつ我が身にふりかかる問題となるかわからないため、他山の石として、関係文書を借りて写し取って置いたものでもあろうか。
文化十四年用水出入文書
中でも評定所まで持ち込まれた大きな事件に、明和九年(一七七二)に中佐野・東台・島村が染井村を相手とした一件と、文化十四年(一八一七)に多古村が、島村を相手として訴え出た一件などがある。
明和九年の水争いは明治にまで引き継がれるが、それは染井の項に譲り、ここでは、顛末のはっきりしている文化十四年(一八一七)の事件をふり返ってみることにする。訴訟に関する原文は次のとおりである。
乍恐以書付御訴訟奉申上候
松平大蔵少輔領分
下総国香取郡多胡村
役人惣代
佐五兵衛
訴訟人ハ重兵衛
用水差障出入
安藤次右衛門知行所
同国同郡嶌村
名主 藤右衛門
組頭 六兵衛
〃 又右衛門
〃 勘之丞
〃 庄右衛門
〃 庄左衛門
百姓代半兵衛
〃 久蔵
〃 三郎左衛門
〃 長右衛門
〃 又兵衛
右訴訟人佐五兵衛・重兵衛奉申上候。当村之儀者、本高新高合千三百石余ニて山林無之、田方多ク御座候得共、涌水無之、用水之儀者、同郡染井村地内水門樋口より、凡百三拾間程下、萩原堰ト唱ヘ土堰有之水引場候得共、一体地高之場所ニて洩水致し用水不足ニ付、年々領主より出役有之、普請之砌者、用水堀通り泥ニて壁立候得共、悪水咄し場所悪地之土地ゆへ、 (保)急水溝通追々欠崩候ニ付、古形之通築留用水引取、田方相続仕来り候ニ付、領主より堰守給米弐斗、村方より弐俵、都合弐俵弐斗宛、往昔より年々染井村江差遣し、是迠故障無之処、当夏之儀者、至而旱魃ゆへ用水不足ニ付、漸田方植付仕候処、先月八日、相手之者共染井村江罷越、右村役人江申聞候者、多胡村用水堀欠崩候場所築留候ゆへ洩水無之難渋ニ付、切落呉候様掛合ニ不及挨拶ニ寄り、口論ニも可相成、本村之儀ニ付、相届候旨申ニ付、直段掛合ニ及候而者、争論ニ茂可相成ト存、暫く相待候様申聞置候由ニて、染井村役人より私共江相咄し候ニ付、一体不足之用水、殊ニ嶋村之儀者別段用水有之、当夏旱損ニ付、同様難儀之筋ニ御座候。
併近村之儀ニ付、違論等ニ茂不相成様仕度旨挨拶仕候処、相手之者共、右挨拶茂不相待、同日染井村名主宅江参り、水門下築留之場所切落不申候而者、難渋ニ相成候間、只今切落し候事寄り耕作ニ差障可申段、相断候由相知候ニ付、早速罷出見届候処、凡人数百五六拾人程、鋤鍬竹鑓鳶口等所持致し、銘々脇差越(を)帯、時之声越上ケ、竹貝を吹立、理不尽ニ当村用水溝切破、余り不法之者共ゆへ、当村小前之者共罷出可差押旨申之候得共、右体不法之者共ゆへ、其場所江罷出候ハヽ、何様怪我可仕哉も難斗、達而差留置候ゆへ、嶌村之者共存分ニ切落し水引取候ニ付、如何之訳ニて右体理不尽仕候哉之旨掛合ニ及候処、満水之節者水咄候儀有之候ニ付、難義之節ゆへ切落し候抔、不法之挨拶申募、何様候掛合候而茂一円取散不申、隣村之者共立入、相手之者共江意見仕候得共、水下之儀ニ付、用水不足之砌者此上 茂切落し候抔ト不法申募、一向取散不申、右場所為切落候而者、田方不残旱損仕難儀至極仕候ニ付、無是悲今般御訴訟奉申上候。
何卒以御慈悲、相手之者共被召出、理不尽ニ用水堀切払、当村用水ニ指障候始末、逸々御吟味被成下置、一村限之用水、以来不指障候様被為仰付被下置度奉願上候。 以上
文化十四丑年(一八一七)八月日
多胡村役人
惣代 佐五兵衛
〃 重兵衛
御奉行所様
乍恐以返答書奉申上候
下総国香取郡嶋村名主藤右衛門外拾人惣代組頭六兵衛、百姓代蔵右衛門右両人奉申上候。同国同郡多胡村役人惣代組頭佐五兵衛同重兵衛より、相掛り候用水指障出入之旨申立、土屋紀伊守様江奉出訴、九月二日御差日之御尊判頂戴被相附拝見奉畏、乍恐返答書を以左ニ奉申上候。
右訴訟人佐五兵衛・重兵衛申立候者、村高合千三百石余有之、田方多く涌水無之、用水之儀者、染井村地内水門堰口より百三拾間程下、萩原堰と唱江土堰有之場所より引水い多(た)し、往昔より堰給米弐俵弐斗宛、染井村江指出し、年々地頭役人出役有之普請仕候。
右場所者土性不冝候ニ付、泥ニ而塗立候得共、悪水咄し場所水 (保)急水溝通り欠崩候ニ付、古形之通築留用水引取候処、相手之者共、当六月四日、鳶口竹鑓脇指等を帯竹貝越吹立、理不尽ニ切落候趣、其外所々申上候。
此段当村之儀者、本田新田合高八百石余ニて山林無之、畑方少く田方勝ニて、田中之嶌村涌水等一切無之、同郡染井村樋口之洩水、往昔より当村用水溜堰ニ仕、尚又当村堰洩水、右多古村御同領舟越村田地五百石余相続仕、右堰上ニ字横と唱江、多古村江分水い多し右村新田江引水仕、是又四百石余、右三ケ村高合千七百石余之御田地ニ而、何茂当村堰ニて相続仕来候。
且当村之儀者堰水之外涌水無之ニ付、春夏冬年々三度宛定堰ニ致し、呑水等堰ニ順し増減有之土地ニ而、右堰水染井村樋口之外可引取用水決而無之、多古村之儀者、染井村用水之末不残多古村江引用水ニ相成、尤此水上五ケ村落合ニて殊之外大水ニ有之、右水之内漸壱歩程染井村樋口より洩水致し、右樋口より弐拾間程下ニ而、一方者初鹿野河内守様御知行所染井村、一方者私共地頭所東台村、右両村之間ニ、多胡村当村両村之用水堀左右ニ別連(れ)有之、右用水当村江之落口、当年旱魃ニ付多胡村ニて築留、訴訟人古形之趣申紛し候得共、全偽ニ而、当村之儀者染井村樋口洩水之外可引取用水無之、右用水を以田方仕付候後者、毎日水番弐人宛半日替ニ染井村樋口迠罷越、秋中堰取払口迠無怠水番附置申候者、往昔より仕来ニ御座候処、多古村之儀者染井村水門流末ニ而、上五ケ村之涌水染井村用水ニ罷成、漸壱歩右水門洩水、当村多古村両村往昔より有来之堀筋江流水仕、右之内八厘者当村用水、弐厘者多胡村用水堀江廻り、流末者染井村水門尻多古村堀江落合十分ニ相成、右之内聊八厘当村用水ニ相成申候。
然ル処当村落口、当五月廿九日訴訟方ニ而〆切致候ニ付、水番之者共切払候得共、猶又翌日〆切申候間切払候得者、六月四日数百人罷出芝土俵を以聢と築立〆切置、番之者数拾人、村役人差添樋口上山岸江番小屋を補理厳重ニ守居候間、当村番人共ニ而者中々妨候儀出来不申、驚入逃去、右之趣申聞候間、私共より及掛合候者、右場所江堰仕立候者往昔より無之、新規之儀ニ付、早々取払可申旨再応申聞候得共、一円取散不申、剰鋤鍬鳶口棒竹鑓体之物携居、不法申募何分取払可申体無之、右体不法ニ新堰被致候而者、御田地可養様無之、村方呑水迠ニ指支、難儀至極仕候間、当村之者共右場所江罷越、呑水迠ニ指支候旨申断、堰取払申候。
右ニ付奉出訴、私共不法之始末仕候趣所々申立候得共、全偽取拵ニ而、却而訴訟方之者共、前書之通大勢小屋を掛、大村之百姓不残罷出、新堰を仕立〆切申候。右場所者、聊茂水留等致候仕来者無之、当夏打続旱魃仕候ニ付、一同用水不足仕候間、右新堰い多し候ニ相違無御座候間、何卒以御慈悲前書之始末被為聞召分、御吟味之上、以来右体理不尽ニ新堰不仕、仕来之通相心得、当村御田地用水ニ不差障候様被仰付被下置候ハヽ、重々難有仕合奉存候。以上
文化十四年丑(一八一七)九月二日
安藤次右衛門知行所
下総国香取郡嶌村
役人拾壱人
惣代組頭 六兵衛
〃百姓代 蔵右衛門
御評定所
御裁許上証文写
差上申一札之事
私共出入御吟味之処、地所之儀就難御決為、地改御代官田口五郎左衛門様・山口鉄五郎様、両御手附御手代衆被指遣被遂御糺明候処、訴訟方之儀、古来より染井村用水流末、又者同村悪水祓水門洩水を用水ニ致し来候得共、不足ニ付、染井村江申談、右水門樋口より貰水多(た)り候ゆへ堰守給渡来、右之次第ニ付旱魃之節者、今般之論所嶋村用水路を築留来、既ニ明和八卯年(一七七一)、同九辰年(一七七二)両度旱魃之節も、築留候由申立候得共、右者中佐野・東台両村より、嶋村並染井村江掛り候出入ニて、嶋村用水路を多古村ニて築留候旨、嶋村より差障申立候所、訴状外之儀ニ付、不被及御沙汰旨被仰渡候儀ニて、仕来之有無者不相分、其節御見分之衆江指出候由之書付茂自己之書留ニ付、今般出入之証拠ニ者難相成、是迠水不足之節者、築留候由者申口迠ニ而難御取用、相手方之儀茂、一体訴訟方村方より者地 ニて、染井村悪水咄水門洩水並同村用水路藻草刈又者耕植付候
田方草取之節者、右水門より落候悪水茂過半溜堰江流入候上者、仮令舟越村用水ニ茂相成候とも、一概ニ堰難為仕立与(と)之申分者難御取用、其外無証拠申争之儀者双方共難成御流用、依之已来染井村用水路藻草刈、又者同村ニ而耕植付田方草取ニ者水門戸前明候節之落水、平年者萩原堰之外堰不致、流ニ随ひ銘々用水路江引請、多胡村ニて染井村より貰水致候節茂、右同様堰不致、旱魃之節者日間越隔一日宛都合日数四日、右落水双方江等分ニ分り候様、地元染井村東台村両村共立会之上、嶌村用水路江多古村ニて堰致し引取、旱魃と申程ニ者無之候共、水不足ニて指支候節者、双方立会旱田之場所見届候上、右振合越以取斗、不及再論様可致旨被仰渡、一同承知奉畏候。
若相背候者御科可被仰付候。依而御請証文差上申処如件
文政二卯年(一八一九)二月廿一日
松平源三郎領分
下総国香取郡多古村
訴訟方 惣代名主 多郎兵衛
組頭 半右衛門
〃 佐五兵衛
安藤次右衛門知行所
同国同郡嶌村
相手方 惣代組頭 六兵衛
〃百姓代 蔵右衛門
追而相手与成候
松平源三郎領分
松平大隅守知行
同国同郡舟越村
源三郎領分
名主 與平次
御吟味ニ付被召出候
初鹿野河内守知行
初鹿野勘解由
三木八十五郎
同郡染井村
惣代
河内守知行分
組頭 七郎右衛門
安藤次右衛門知行
同郡東台村
惣代組頭 幸右衛門
御評定所
以上が、多古村から提訴して争った、水争いに関する文書の原文である。
この概要は、水不足の年に、多古村が築いた用水堰を、島村が大勢で暴力的に取り払ってしまったため、多古村が、減収となるので厳重に取り締ってほしい、と申立て、これに対して島村側は、この水路の水は島村だけではなく、船越村も利用しているので、堰を作られたことによる被害は二カ村に及び、被害面積は多古村より大である。また水不足の年にだけ、新しい場所に堰を作ったので、それを取り払ったところ、再度堰を作り、その堰の上に番小屋を建てて大勢で見張っている。その対抗上、島村からも大勢で行ってまた取り払っただけで、暴力的なことはお互いである、と反論している。
こうした両者のいい分に対して評定所は、関係村である船越村の村役人、証人として染井・東台村の村役人を呼んで取り調べの上、堰は毎年作っているという多古村の申立ても、島村が、日照りの年に限って増設したといっていることも、この両者の申立てには証拠がないので、いずれも認められない。今後、干魃のときは染井・東台も立会って、一日おきに四日の間、落水が双方へ等分に分かれるようにし、干魃とはいえないまでも水不足のときには、多古・島の両村で右と同様に取り計らい、再び争論することのないように、との申し渡しをしたのである。
こうして島村では水争いは決着したが、この争いに引き続いて、次には水戸村から村境いの問題で訴訟を起こされ、同じ年にもう一度、評定所へ総代を送らなければならないことになった。その訴訟原文は次のとおりである。
乍恐以書付御訴訟奉申上候
松平源三郎領分
下総国香取郡水戸村
名主 縫之丞
組頭 久右衛門
〃 四郎右衛門
松平房之助知行所
同国同郡同村
名主 九右衛門
組頭 半右衛門
本間重右衛門知行所
同国同郡石成村
名主 利兵衛
組頭 利左衛門
神保亀三郎知行所
同国同郡同村
名主 庄兵衛
組頭 三右衛門
右九人惣代 縫之丞
地所出入 訴訟人 庄兵衛
安藤次右衛門様御知行所
同国同郡 嶌村
名主 藤右衛門
組頭 勘之丞
相手 〃 庄右衛門
〃 六兵衛
〃 又右衛門
右訴訟方、惣代縫之丞・庄兵衛奉申上候。水戸村石成村者田畑人家共入交居、字沖と申所者水荒真菰生ニ而凡壱丁五反歩程有之、右手嶋村境者、多古橋川流より嶋村田地限り、右真菰生之場所者、私共四給並ニ水戸村之内安藤次右衛門様御知行所分共都合五給入会、苅採来り候所、相手嶋村より同郡多古村江相掛り候用水出入地所之儀難御決者、寅五月為地改御見分、御出役人中様御出役之節、当村も論所地境ニ付、為引合被召出候砌、前書当村永荒真菰生之場所を、嶋村地内用水溜ニ而、右西縁通より水中ニ打置候杭者、嶋村与私共両村境印之由申立候ニ付、右者偽ニ而、嶋村与私共両村境者、多古橋川通夫より嶋村田地限ニ而、真菰生之場にて、私共両村永荒地ニ御座候段申立 右者論外ゆへ、御吟味不被仰付候間、村境之儀往古より仕来之通可相守旨相手嶋村江種々掛合候得共、我意之募相済不申候間、無拠御訴訟奉申上候。
相手嶋村ニ而村境与申立候当村字沖西縁通水中杭木者、当村古田与水荒場之境ニ当村ニ而打置候儀御座候間、何卒以御慈悲、相手名前之者共被召出、右始末御吟味之上、村境之儀嶋村ニて不申紛候様被仰付被下置度奉願上候。猶御尋之儀者乍恐口上を以可奉申上候。 以上
右九人惣代
訴訟人 [縫之丞 庄兵衛]
御奉行所様
乍恐以返答書奉申上候
下総国香取郡嶋村名主藤右衛門外四人惣代、組頭六兵衛・百姓代蔵右衛門奉申上候。同郡水戸村・石成村名主縫之丞外七人より、私共江相掛候地所出入之由申立、尚御奉行所様江奉出訴、来月二日御差日御尊判頂戴相附候ニ付、乍恐始末左ニ御答奉申上候。
一、訴訟方惣代縫之丞・庄兵衛申立候者、水戸村石成村両村之田畑入交、字沖与申所者、永荒真菰生ニ而、壱町五反歩程有之、右手嶋村境者多古橋川流より嶋村田地を限、真菰生之場所者私共四給並水戸村之内、安藤次右衛門様御知行分共、五給入会苅採来候処、相手嶋村より多古村江相掛り候用水出入地改として、御役人中様御出役之砌、当村も論所地境ニ付被召出候砌、前書真菰生之場所、嶋村用水地内之溜ニ而、右西縁通水中ニ打置候杭者嶋村私共両村境印由申立候ニ付、両村境者多古橋川通嶋村田地限ニ而、真菰生之場所者私共両村永荒地之段申立候処、論外ニ付御吟味不被仰付候間、村境仕来り之通可相守旨、相手嶌村江掛合候得共、我意申募相済不申旨申立候。
此段当村、本田新田合高八百余石ニて山林無之、畑方少く田方勝ニ而、涌水等一切無之、用水之儀者、同郡染井村川筋より凡五拾余町川下ニ而、溜堰壱ケ所有之、右江用水溜置、春夏冬壱ケ年ニ三度宛定堰致し、呑水等堰ニ准増減有之土地ニ而、同郡舟越村七百余石是又右溜堰之余水を以相続仕来り候。
溜堰往古者悉く深沼ニ有之候処、去ル明和八九両年之旱魃ニ干潟と相成、年々大水之度土流来淀ミ自然と縁通土高相成、右沼縁通永荒場、凡弐町五反歩程有之、右村境者水戸村石成村並多古村迚茂、堰沼境通江者所々柳・はんの木植置、別而訴訟方地境江者其上杭を打、弐拾壱之小塚を築立有之候処、出水之節欠崩ニ相成候を幸ひと心得訴訟方ニ而段々ニ掠取、当時小塚拾九ニ相成候得共、塚形者銘々相残居柳・はんの木共ニ御座候。
訴訟方ニ而五給入会之古田と永荒之境杭、真菰生之場所多古橋川流を境と申立候者、全私共溜堰之袋内西川縁通ヲ新開ニ可掠取巧ニ御座候。右場所切開新田ニ相成候而者、村方之儀者不及申ニ、舟越村迠も堰溜者元水之事ゆへ末々之御田地迠水廻り兼、旱田と相成申候。
当村堰溜続、訴訟方埜地御座候処、明和八九両年之旱魃より次第ニ切開、只今ニ而者当村地境迠新開仕、又候私共堰溜被掠取、新開可仕巧ニ奉存候。且去ル丑年より当二月迠、多古村より私共村方江相掛候水論一件ニ而、村内一統困窮仕罷有候を附込、多古村同領水戸村名主縫之丞重立外給を申かたらひ奉出訴候儀ニ御座候。
既ニ右水論一件地所之儀難御決為地改と御見分、御出役先江訴訟方之者共より、当村堰川より西縁通之地所、先年私共方江貸置候由申立候ニ付、貸借之証拠有無御尋御座候処、両村者無証拠候得共、嶋村ニ者可有之旨申立候間、則私共被召出有無御尋ニ付、前書弐拾壱塚杭木等、両村立合之上打置候始末、逐一奉申上候得共、論外之儀ニ付御取用難相成旨被仰聞候。
右体御見分先ニおいて、私共村方貸置候旨申立置、今更ニ相成永荒古田之境杭抔と申立候儀者、何共難心得奉存候。且又明和年中、同郡東台村中佐野村より、私共村方染井村ニ相掛候用水出入之節茂、御見分御役人中様御出役有之候得共、其砌者何之申立も無之、一体私共村方江貸置候地所ニ御座候得者、是迠迚茂掛合可有之処無其儀罷在、今般ニ相成歴然と境印有之候を俄取拵致し難渋申掛候者畢竟困窮之村方と見誨、地所可掠取巧ニ御座候。
前文之通聢と境印有之候越、彼是と申偽候者共ニ御座候へ者、両村之内ニ者私共村方飛地田畑合弐町四反歩余、外ニ山谷入交居、既田畑之儀者畔を境ニ致し有之候得者、行末何様之儀可申掛も難斗安心不仕候間、何卒以御慈悲書面之趣被為聞召分始末御吟味之上、以来村境等江不差 (綺)不法不申掛、是迠之通相守候様被仰付被下置度奉願上候。猶巨細之儀者御尋之上乍恐口上ニ而可奉申上候。以上
文政二年卯(一八一九)四月日
安藤次右衛門知行所
下総国香取郡嶌村
名主 藤右衛門
組頭 勘之丞
〃 庄右衛門
〃 六兵衛
〃 又右衛門
右五人惣代
〃 六兵衛
〃 藤右衛門
御奉行所様
水戸村地論御裁許証文写
差上申一札之事
私共出入御吟味之処、地所之儀就難御決爲、地改御代官川崎平太郎様・林重五郎様両御手附衆被差遣、再応被遂御糺明候処、訴訟方之儀、字多古橋川西字沖並沖之内反別壱町三畝歩余之埜地者水戸石成両村四給持ニ而、西縁杭木之年貢地之境ニ付前々打置候由、並右場所之内ニ水戸村元禄度水帳外書、字沖永不田有之候由者的証無之、字沖之内下田四筆之分者享保度水帳ニ荒地之趣記し無之、右場所より弁納致し候由茂割付ニ無之上者難相分、石成村者水帳無之、元禄度名寄帳者位限反別寄並小前持高辻の已ニて、右帳面両給中田之廉ニ弐口合三反歩前々荒引と記し有之候迠ニ而字無之、一体之内納辻前々より相増殊地続西之方、字沖之内並沖本田中下田反別五反壱畝歩余之由者、右反別多分之余歩有之候上者、論所一円追退と之申分難御取用、相手方之儀ニ茂字水門川西埜地者、字堰場外三ケ所本田古新 新々田下田下々田、荒地並芦場八畝歩共合壱町壱反壱畝歩ニ而溜堰場ニ有之、西縁地境江前々立会之上杭木を打、小塚築立候由者申候迠ニ而証拠無之並論所同様荒地之由申立候。
論 川東埜地続年貢地字堰場外七ケ所、本田古新田上中下下々田壱町弐反五畝五歩余之由者、右反別多分 余歩有之候上者旁論所一円追退との申分難御取用、其余無証拠申争迠之議者都而難成御信用候。依之以来御分間四番杭より弐拾二番杭江見通し、地境ニ定、西者訴訟方、東者相手方追退と相心得、右見通 境者双方立会杭木打置べ 被仰渡候。
相手方之もの共儀、論所際通川筋、訴訟方之もの共為立会茂不致出入中川浚い多し候段不埓ニ付急度御叱被置候。
右被仰渡之趣一同承知奉畏候。若相背候ハヽ重科被仰付候。仍而御請証文差上申処如件
松平源三郎領分
松平房之助知行
下総国香取郡水戸村
本間重右衛門知行
神保亀三郎
同郡石成村
右弐ケ村惣代
水戸村
源三郎領分
名主 縫之丞
訴訟方房之助知行
百姓代 次郎兵衛
石成村
亀三郎知行
名主 庄兵衛
安藤次右衛門知行
同郡嶌村惣代
名主 六兵衛
百姓代 蔵右衛門
相手方
御吟味ニ付被召出候
同人知行
右水戸村名主 安右衛門
御評定所
この事件の発端は、多古村から訴えられた前記の水争いで、役人が実地調査に訪れ、近隣村々の村役人が立会いの上、多古橋川流域を調査したときのことである。この川に接した字沖というところに沼があり、島村では、農業用水調整池として船越村と多年共用している沼であるから島村に属し、村境いは水戸村側堤下の真菰(まこも)の生えているところである、と主張すると、水戸村では、沼はその全部が水戸村に属し、沼の東を流れる多古橋川が村境であるとして、大きく両者の主張がくい違い、このとき出張していた役人に両者の主張を裁決してくれるように申し入れたが、役人は、今回の調査は、多古村と島村の水争いの調査であるから目的が違い、地境い問題は担当が違うという理由で判断を示さなかったため、水戸村から奉行所へ訴えられることになった。
島村にとっては、多古村との水争い問題がようやく解決したところへ引き続いての事件で、人の弱みに付け込むかと憤るが、訴えに対する奉行所の判決は、水戸村・島村がともに沼が我が村の地域であると主張することについては、双方に証拠がなく、いずれも信じられない。しかし島村が水戸村の立会いもなく、西側堤下の水中に杭を打ったことは不法であるとして、今後このようなことは行わないように命じ、村境いについては、奉行所役人が新しく打った杭をもって境と定めたのである。