もとは、それぞれが水戸村、石成村を称して独立し、村ごとに鎮守を祀り、寺を維持して来たが、同時に、幕政時代からなにかにつけて共同体制をとっていた。その理由を、「地勢が似ているうえに、家打ち交りて判別しがたく」と述べている(「合併出願書」)。それに加えて、石成についての資料にも乏しいので、ここでは便宜上一村として記述していくことにする。
多古北部から南部の水田地域へ半島状に張り出した台地が、途中でさらに東西に二分され、その西側部分をはさんで、多古橋川と高谷川が流れている。そして、突端部の先を水田が帯状に広がっているが、北縁の集落が水戸で、その東端の集落が石成である。