明治十二年十月に旧両村は合併して、水戸村を称する一村となり、幾多の変遷を経て現代へと続くのであるが、現在の面積や人口などは次のようになっている。(昭和五十九年十一月現在)
宅地 七町五反九畝二歩
田 五六町八畝一三歩
畑 二二町四反九畝二九歩
山林 四三町一反二七歩
原野 四反六畝一二歩
池沼 六畝二〇歩
その他 二町七反五畝六歩
計 一三二町五反六畝一九歩
世帯数 九一戸
人口 三七五人 男一八二人 女一九三人
世帯数および人口は昭和五十九年十月現在である。
これが古い時代にはどのようであったのだろうか。水帳と称された徳川時代の土地台帳は見当たらなかったが、慶応四年に多古藩役所へ提出した報告書に、年貢計算の基礎となる支配者ごとの地目別面積が記載されてあったことから、それを集計してみると次のようになる。
田 三四町七反四畝二五歩
畑 一八町五反六畝一五歩二厘
屋敷 一町七反八畝一七歩八厘
計 五五町九畝二八歩
戸数 七〇戸
これを田畑屋敷の面積に限ってみれば、三一町歩余、六割近くの増加となっている。なお、戸数については、弘化二年(一八四五)に関東取締出役が調査した資料によると「水戸村五十二軒、石成村十五軒」とある。