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村の起こりと支配者

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 平安末期~江戸期までの支配者
 いつから村落を形成し、水戸(石成)村と称したかは不明であるが、法眼寺過去帳に「明治四十三年、境内の一隅から御題目を刻んだ石碑を発見し、そこに、応安二年(一三六九)の年号が判読できた」とのことが記されている。この時代は南北両朝が争っていた最中で、足利幕府が延暦寺僧兵の強訴に屈し、南禅寺の楼門を壊したりした年でもある。このころすでに題目碑を造って一族の供養を行う信仰があり、人工を加えた石を遠く搬入する富を持った人が住んでいたところであったわけである。
 さらに、字城ノ台と呼ばれるところは、古くから城跡であるといい伝えられていたが、築城の時代や城主名などを知ることはできなかった。
 そこへ、昭和四十三年夏に、東京上荻窪在住の井川俊之助氏より「自分の家系に、水戸谷(みとやつ)城主源朝臣水戸谷次郎有義の名があるが――」との照会があったことから、地元研究者有志がその調査に当たった。
 まず、井川氏家系図に記されている要点を見ると、次のようになっている。
 
  水戸谷城主 水戸谷次郎有義
   故あって千葉氏の旗下となる
   牛尾美濃守胤贊(たねすけ)聟(牛尾氏の女を娶る)
  水戸谷四三郎義信
   平治の乱(一一五九)義朝に随功を顕す
   千葉一門とともに頼朝随下
  水戸谷蔵人景賢
   天正十八年(一五九〇)七月七日
   千葉氏胤と共に小田原参陣、湯本口を守る。
 
 これを見ると、有義について「牛尾美濃守胤賛聟」とあり、牛尾氏は、その年代ははっきりしないが、千葉介常長の四男頼常(原四郎)から十四代後裔の胤資(すけ)(「賛」とも。美濃守入道)がはじめて牛尾氏を名乗っている(『千学集抄』)。このことから、水戸谷・牛尾両家の縁組みは、少なくともこのとき以後で、そして、有義の子(または弟か)の義信が平治の乱に軍功があったとしているのをみると、平治の乱のあった平治元年(一一五九)以前のことといえる。
 これ以降、天正十八年(一五九〇)まで約四〇〇年間の事績は不明である。やがて、蔵人景賢のとき、千葉一門に属して小田原城湯本口を守ったが、北条氏滅亡とともに水戸谷氏は荻窪村へ落ち、のち商に転じて紀州徳川家の江戸屋敷御用を勤め、姓を井川と改めて市井の人となった。
 以上が、水戸谷城主をめぐる平安末期から江戸期に入る以前の、水戸の一面である。
 徳川幕政下の支配者
 徳川幕政下に入ってからは何人かの分割統治となって、水戸村は多古藩松平氏・旗本安藤氏・同松平氏(多古藩分家)の三氏に。石成村は旗本本間氏・同神保氏の二氏によってそれぞれ支配されるが、水戸の一部を所領していた多古藩が嘉永四年(一八五一)に国替えとなって転封の後は、その領地を旗本松浦氏と同杉浦氏がそれぞれ知行地とした。
 以下各支配者ごとに家系や年貢などの概要を述べてみることにする。
 多古藩松平氏 本姓は久松氏であるが、徳川家康の異父弟になることから徳川家の旧姓松平氏を賜わった(明治に復姓して久松氏となる)。初代松平康俊は久能城主(静岡県)で、三代勝義のとき寛永十二年(一六三五)八千石で多古に入部。これ以後代々松平氏の領地であった。
 十一代勝行のとき、国替えのため陸奥国(福島県)磐城へ移されることによって、多古藩松平氏による水戸の支配は終わるが、同藩についての詳細は、通史および地域史編・多古の項を参照していただきたい。水戸における同藩の知行内容は、次の資料二点が示すとおりである。
 
  一、御本高弐百四拾七石四斗七升壱合
    外除地左之通り
   字た(多)こはし
   一、中田壱反六歩    天照太神宮免
   〃さ婦(ぶ)や
   一、下田五畝廿四歩   雷電大明神宮免
   〃なべしき
   一、下田七畝拾四歩   三十番神宮免
   〃こひじ里(り)さく
   一、下田四畝廿歩    同寺分竿免
   〃 〃
   一、下田三畝廿七歩   同寺分同断
   〃ゑびや
   一、壱畝拾弐歩     蔵屋鋪
   〃さく
   一、九畝拾六歩     法眼寺境内
   〃七折
   一、下畑弐畝廿壱歩   喜平次分竿免
   〃同
   一、下畑三畝歩     与惣兵衛分同断
   〃沖
   一、六反八畝廿歩    永不田
   右御除地之分者前々より国役金不懸地ニ御座候 今般御尋ニ付奉申上候 以上
     天保三年辰(一八三二)十月
                                       御領分
                                        水戸村
                                        組頭 四郎右衛門
                                        同  久右衛門
                                        名主 縫之丞
      多古 御役所
 
     酉御年貢勘定目録
                                     水戸村
  一、米弐百三拾五俵弐斗八升三合  本米
  一、米六俵壱斗四升八合弐勺    口米
   合米弐百四拾弐俵三升壱合弐勺
     内糯米 四俵
  一、永五貫四百拾七文  夏成
  一、鐚壱貫拾八文    口銭
     右納次第
  一、金三両也       夏成金三月納
  一、金弐両壱分銀拾匁弐厘 右同断六月納
    鐚壱貫拾八文口銭共
  一、米弐拾四俵     壱番米佐原津出
  一、米八俵三斗五合三勺 弐三四五番米右同断
   小以
    〆米三拾弐俵三斗五合三勺
  一、米六俵三斗四升七合八勺  定式引
   内
    弐俵       名主給米
    弐斗九升壱合八勺 荒地引
    五升       納人扶持
    四俵       大豆八俵代米
    六合       牛房代米
  一、米六拾五俵壱斗七升八合壱勺
   内
    弐俵三斗七升     夫人壱人掛米平均 両七斗八升替
    壱俵壱斗壱升     初御入部ニ付為御酒代被下米
    三表弐斗九升八合壱勺 当七月大風雨ニ付崩折中田壱反拾弐歩 下田八畝拾壱歩 上畑五畝拾七歩 中畑壱反壱畝六歩
               下畑壱畝廿六歩 屋敷壱畝拾四歩引石
    五拾七俵       当田方水腐違作ニ付 御憐愍御用捨被下米
    弐斗         当御収納限已前皆済ニ付御褒美米被下
  一、米百拾七俵   村役人御払請両 七斗弐升替
    代金六拾五両也
  一、米弐拾俵    違作ニ付夫食拝借米割元引請成残秋上納之定
   納合
    米弐百四拾弐俵三升壱合弐勺
   右之通取立勘定無相違上納可致もの也
     嘉永二己酉年(一八四九)十月
      多古役所 印
                                        右村
                                          名主
                                          組頭
                                          百姓代
 
 前の文は、免税地で国役金のかからないところを書き出したもので、あとの文は、納入年貢の明細である。
 多古藩分家松平氏 分家初代は、本家の多古初代藩主勝義の四男小左衛門勝光である。万治二年(一六五九)七月、四代将軍家綱の小性組番士となり、寛文元年(一六六一)十二月廩米三百俵を賜わっている。
 寛文十年(一六七〇)十二月に、父の遺領内の上総国武射郡・下総国香取郡内で、五百石を分けられて一家を独立したが、このときから水戸の一部が分家勝光の知行地となったと思われる。享保二年(一七一七)八月三日、七十八歳で没した。
 以後代々、小性組番士・書院番の役を勤めて明治を迎える。郡内での他の知行地として南和田村がある。最後の当主は小左衛門で、名主は勘八が勤めていた。
 慶応四年の報告書に見られる知行内容は、次のとおりである。
 
                               松平小左衛門知行所
                                 下総国香取郡水戸村
                                      家数九軒
  一、高六拾壱石八斗八升五合
    此反別
    七町四反三畝弐拾七歩
    内四町七反弐畝三歩  田方
     弐町七反壱畝弐拾四歩
      此訳
  一、上田壱町壱反五畝五歩    石盛十五
    分米拾七石弐斗七升五合
  一、中田壱町壱反拾九歩       十二
    分米拾三石弐斗七升六合
  一、下田弐町四反六畝九歩       七
    分米拾七石弐斗三升四合
  一、上畑五反七畝廿九歩     石盛 九
    分米五石弐斗壱升七合
  一、中畑三反七畝拾弐歩        六
    分米弐石弐斗四升四合
  一、下畑壱町五反七畝弐歩       三
    分米四石七斗壱升弐合
  一、屋敷壱反九畝八歩         十
    分米壱石九斗弐升七合
  合高
   六拾壱石八斗八升五合
    内高壱石七斗四升七合六勺七才 永荒引
  残高
   六拾石壱斗三升七合三勺三才 但壱石ニ付四斗納
   此納米弐拾四石五升四合九勺三才
    内米三斗九升       水腐引
  差引残
   納米弐拾三石六斗六升四合九勺三才
   御朱印寺社領無御座候
 
 安藤氏 隣村の島集落も知行地にしていたので、家系についてはそこに既述したが、徳川家の三河以来の家臣で、天正十九年(一五九一)五月相模国高座・鎌倉二郡内で采地四百石を受け、慶長六年(一六〇一)の加増によって、香取郡内で千百石の知行地を得るが、このときから村の一部を支配することになったようである。のちに、総高は二千五百四十石となり、代々、小性組、使番などを勤めて、明治まで村の支配を続けた。郡内での他の知行地は、丁子(ようろご)・三ノ分目(わけめ)・小川・東台・島の村々で、最後の当主は安藤次右衛門といい、名主は吉兵衛が勤めていた。
 知行の内容については、慶応四年の報告書に次のように記されている。
 
                               安藤次右衛門知行所
                                 下総国香取郡水戸村
                                     家数拾弐軒
  一、高七拾四石四斗六升八合壱勺九才
     反別拾町九畝廿四歩
      此訳
  一、上田壱町三反弐拾九歩    石盛十五
    分米拾九石六斗四升四合三勺
  一、中田六反八畝拾四歩       十二
    分米八石弐斗壱升五合四勺四才
  一、下田四町七反六畝三歩       七
    分米三拾三石三斗弐升七合
  一、中畑三反九畝八歩         六
    分米弐石三斗五升五合七勺弐才
  一、下畑弐町五反廿五歩      石盛三
    分米七石五斗弐升四合九勺三才
  一、下々畑壱反四畝拾歩        二
    分米弐斗八升六合弐勺
  一、構壱反三歩            九
    分米九斗九合
  一、屋鋪壱反六畝廿五歩        十
    分米壱石六斗八升三合壱勺
    反別合
   拾町九畝廿四歩
   此高七拾四石四斗六升壱合八勺
     〆
   永壱貫七百五十文     夏成納
   内弐石壱斗五升弐合    永荒引
   此反別七反壱畝廿歩
   内弐斗六升壱合      山成分引
   此反別弐畝拾七歩
  残反別合
   九町三反五畝七歩
   此高七拾弐石五升五合壱勺九才
           納壱石ニ付三斗九升九合
   納米廿八石四斗六升壱合八勺
    内米八斗八升弐合四勺  砂押引
  引残而
   納米廿弐石六斗七升九合四勺 延口共
    御朱印寺社領無御座候
 
 松浦氏 総高千三百石の旗本で、嘉永四年多古藩が陸奥磐城に国替えになった後、水戸内の旧多古藩領を後述の杉浦氏と分割支配したのは松浦酒之丞である。
 松浦氏は、もと鳥羽院の北面(院の御所の北面(きたおもて)にあって、院中を警護した武士)で、のち肥前国(長崎県)松浦に土着して地名を姓とした。豊臣時代には、壹岐島までその勢力下に収めて平戸に城を築き、六万三千二百石の領主となった。慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦には徳川方に属し、隆信(肥前守)の三男信辰(のぶとき)が、寛永十二年(一六三五)に徳川家光に仕えて小性組となり、別に一家を創立した。
 その後は代々、目付・近習番・西城書院番などの役を勤め、明治を迎えた最後の当主は亥三郎であった。村方役人としての名主役は縫之丞が勤め、郡内での他の知行地としては船越があった。
 支配の内容について安政四年(一八五七)の『宗門人別帳』は、「家数三十軒、人数百二十九人内男五十八人女七十一人、馬十疋」と伝えている。
 また、慶応四年に多古陣屋へ報告した文書には、次のように記されている。
 
                               松浦亥三郎知行所
                                下総国香取郡水戸村
                                     家数廿七軒
  一、高百九拾七石弐斗四升六合九才
     此反別弐拾四町八反廿九歩壱厘
     百四拾三石壱升七合九才   本田
     此反別拾七町九反八畝廿七歩
     五拾四石弐斗三升      新田
     此反別六町八反弐畝三歩
      此訳
  一、上田三町八畝六歩三厘     石盛十五
     分米四拾六石弐斗三升壱合五勺
  一、中田三町四反九畝廿五歩四厘    十二
     分米四拾壱石九斗八升壱合五勺四才
  一、下田八町六反三畝廿歩八厘      七
     分米六拾石四斗五升八合五勺
  一、上畑壱町三反五畝壱歩弐厘   石盛 九
     分米拾弐石壱斗五升三合六勺
  一、中畑弐町六畝廿三歩六厘       六
     分米拾弐石四斗七合壱勺
  一、下畑五町三反八畝廿八歩三厘     三
     分米拾六石壱斗六升八合五勺九才
  一、屋鋪七反八畝拾三歩五厘       十
     分米七石八斗四升五合弐勺六才
    五畝五歩五厘     荒引
      〆
    永四貫百廿九文壱分  夏成納
  差引残而
    六拾五石四升六勺   延口共
     本高壱石ニ付三斗九升九合
    新高〃   壱斗四升七合壱勺
  御朱印寺社領無御座候
 
 杉浦氏 総高七百石の旗本で、祖先は徳川家康の曽祖父信忠のときからの家臣である。初代惣左衛門久勝は、弱年のころから家康に仕えて永禄六年(一五六三)に采地を賜わり、分家して一家を創立した。元亀三年(一五七二)の三方原の戦、天正三年(一五七五)長篠の戦、天正十三年(一五八五)信州上田城攻め、天正十八年(一五九〇)小田原の役と、多くの戦場に参加したが、小田原のとき軍法にそむいたとして自刃している。
 後の当主は代々小納戸役・書院番・小性組などの役を勤め、多古藩松平氏が転封の後、伝之丞の代から当地を知行地としている。郡内では他に牛尾・入山崎を知行し、最後の当主は常之助であった。また、名主は半兵衛が勤めている。
 支配の内容については、慶応四年の文書に、次のように記されている。
 
                               杉浦常之助知行所
                                 下総国香取郡水戸村
                                      家数七軒
  一、高五拾石弐斗弐升三合九勺壱才
     此反別六町三反壱畝廿壱歩九厘
      此内訳
  一、上田七反八畝拾四歩七厘   石盛十五
     分米拾壱石七斗七升三合五勺
  一、中田八反九畝弐歩六厘      十二
     分米拾石六斗九升三勺四才
  一、下田弐町壱反九畝廿八歩弐厘    七
     分米拾五石三斗九升五合八勺
  一、上畑三反四畝拾壱歩八厘      九
     分米三石九升五合壱勺九才
  一、中畑五反弐畝拾八歩九厘      六
     分米三石壱斗五升七合八勺
  一、下畑壱町三反七畝七歩四厘     三
     分米四石壱斗壱升七合弐勺六才
  一、屋敷壱反九畝廿八歩三厘      十
     分米壱石九斗九升四合弐才
   反別合
    六町三反壱畝廿壱歩九厘
    内壱畝廿四歩五厘     永荒引
    此高五拾石弐斗弐升三合九勺壱才
            壱石ニ付三斗九升九合納
     納米弐拾石三斗八合三勺 但延口共
     永四貫九百六拾文六分  夏成納
     内七升五合八勺     永荒引
     内米拾三石九斗四升四合五勺壱才 夏成引
   引残
    納米六石壱升七合九勺九才  延口共
    御朱印寺領無御座候
 
 次に、石成村の支配者であるが、徳川時代初期から二名の旗本による相給となり、以後は変わることがなかった。次に、その旗本の家系と知行の内容を記してみる。
 本間氏 その祖は遠江(静岡県)の郷士で、北条・今川家などに仕え、政季が今川氏没落後に徳川家臣となり、天正二年(一五七四)本領安堵の朱印状を受けた。
 孫の季重が、寛永二年(一六二五)に遠江国の知行地を相模国(神奈川県)高座郡内に移され、同十年(一六三三)下総国海上郡のうちに新恩二百石を賜わった。その子義貞は千姫付きの役を勤めて千八百石になっている。その子季明は元禄十一年(一六九八)に、上野国(群馬県)の知行地を香取郡内に移され、このときから当地の一部を支配することになったようである。
 その後は御使番や書院番などの役を勤めて、明治を迎えるが、最後の当主は大学義質で、名主役は安兵衛であった。郡内での知行地には、他に次浦・飯笹・篠本などがある。
 知行の内容は、慶応四年の報告書によると、次のように記されている。
 
                                本間大学知行所
                                 下総国香取郡石成村
                                      家数五軒
  一、高三拾七石六斗弐升三合壱勺
   一、田方二口合 壱町壱反六畝廿歩
   一、畑方三口合 六反壱畝歩
      内訳
   一、上田七反五畝拾六歩
      内弐畝八歩    前々より崩引
   一、中田四反壱畝四歩
      内八畝拾壱歩   前々より荒引
   一、上畑四反七畝廿四歩
   一、中畑七畝拾壱歩
   一、屋鋪六畝拾三歩
   納拾石壱斗五升     延口共
    御朱印寺社領無御座候
 
 神保氏 総高千五百石の旗本である。祖先は越中国(富山県)礪波(となみ)郡守山城主であるが、氏張のとき、織田信長の命によって能登国(石川県)勝山に移り、後年は主家を離れて肥後国(熊本県)熊本に居住する。天正十七年(一五八九)徳川家康に招かれて仕え、文禄元年(一五九二)香取郡内で二千石の采地を賜わっているが、このときから当地の一部を支配するようになったものであろう。氏張はこの年の八月五日に六十五歳で没したが、同郡内の知行地、伊能村(大栄町)の宝応寺に葬られている。
 次の五郎兵衛氏長は関ケ原・大坂両度の役に加わり、子孫は代々赤坂溜池築地奉行・書院番などの役を勤めて明治に至った。
 郡内での知行地は他に、成井・中野・稲荷山・柴田・一鍬田・桧木・高津原などがあり、最後の当主は数馬であった。支配の内容は慶応四年の報告書によると、次のようになっている。
 
                               神保数馬知行所
                                下総国香取郡石成村
                                     家数拾軒
  一、高百三拾四石七斗六升三合
    内
  一、高九拾七石壱斗三升
  一、田方二口合三町壱畝八歩
  一、畑方三口合壱町六反三畝三歩
     内訳
  一、上田壱町九反五畝壱歩
  一、中田壱町六畝七歩
  一、上畑壱町弐反三畝拾壱歩
  一、中畑壱反六畝弐歩
    屋敷弐反四畝廿歩
   残而壱反六畝廿歩   前々山崩定引
  納拾七石七斗壱升四合  延口共