字石成一〇五三番にある。明治の『社寺明細帳』には、次のように記されている。
千葉県管下下総国香取郡多古町水戸字石成
真福寺末
真言宗 石成寺
一、本尊 阿弥陀如来
一、由緒 不詳
一、庫裡間数 間口五間 奥行弐間
一、境内坪数 百四拾七坪 官有地第四種
一、境内仏堂 壱宇
大師堂
本尊 弘法大師
由緒 不詳
建物 間口五尺 奥行五尺
一、檀徒人員 拾壱人
多古から水戸に向かうと、集落の入口近く、家並みの後方にある丘の中腹で、水田越しに島の集落まで見渡せる場所である。かつての面影はなく、住職も住んでいない。
寺院としての名残りを留めるのは、亜鉛葺き一・六メートル四面ほどの大師堂と、数基の石塔のみである。堂内には弘法大師像が安置されていて、欄間の額には「たかのやま むすぶいおりの そでくちて こけのしたにも ありあけのつき」と御詠歌が記されている。立てられている二枚の棟札は、それぞれ、「奉再建雷電大明宝殿一宇 郷中安全如意満足修 文化改元甲子天(一八〇四)六月大 日(中間不明)名主松本庄兵衛 組頭鈴木源左衛門 名主鈴木佐兵衛 組頭鈴木利左衛門(以下省略)」、「奉新造立弘法大師尊像一躰 維天保五甲午稔(一八三四)三月廿一日(以下省略)」のように読みとれる。
文面からみると、前の一枚は雷電社再建の棟札で、同社の別当寺であったこの寺に残されたのであろう。他の一枚は、ここに安置されている弘法大師像を造ったときのものである。
境内にある石塔の一基には「鳳谷鈴木先生墓 慶應三丁卯(一八六七)九月 當村鈴木利左衛門 密嚴院到阿實際信士 明治二己巳年六月廿一日 算学門人中」。もう一基には「高市先生墓 石成村中建之 伊豫国産法師永覺 明治十二年八月二十二日去」と刻まれている。いずれも村の子弟たちを教えていたいわゆる寺子屋師匠のものである。