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由緒・縁起

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 この寺の開基・由緒について、明治の『社寺明細帳』は、
 
     千葉県管下下総国香取郡多古町水戸字谷ノ内
                                      誕生寺末
                                  日蓮宗一致派 法眼寺
  一、本尊   三宝諸尊
  一、由緒   不詳
  一、堂宇間数 間口三間三尺 奥行三間三尺
  一、境内坪数 弐百八拾七坪 官有地第四種
  一、境外所有地 (省略)
  一、檀徒人員 六拾七人
 
 このように「不詳」としているが、これ以前の天保十四年(一八四三)に、本山へ提出した文書によると、
 
     天保十四年卯八月
      御尋ニ付書上帳
                下総国香取郡水戸村
                       法眼寺
  宝永三丙戌年(一七〇六)正月十五日
  一、開山 智乘院日寳大徳
  寺作
  一、田畑 無御座候
  一、寄附地 高六石九斗八合
        内畑壱石五斗九升六合
        此内荒畑三斗五升弐合
        内六石五斗五升六合田地
        此内押砂場四斗九升
        旱田場七斗弐升六合
  一、除地 無御座候
  一、境内 九畝十六歩除地
  一、買添地面 無御座候
  一、檀方 四拾八軒内壱軒休
      人数〆弐百廿三人 [内男百十五人 内女百八人]
   右之通相改候処相違無御座候 以上
     天保十四年卯八月日
                             下総国香取郡千田庄水戸村
                                     法眼寺
                              [筑後国 久留米産] 三十一世 日了
                                檀方惣代 半兵衛
                                 村役人 治郎兵衛
      御本山御役僧中
 
 すなわち、宝永三年(一七〇六)智乘院日宝によって開かれたとされている。
 さらに、現在の過去帳(明治四十三年入山の三十七世慈眼院日静記)には、「文化(ママ)・明治両度の火災により、その一切を焼失したことから、開基・歴代・創建年代などは不明であったが、災禍の荒廃を修覆のため作業をしていたとき、『応安二年己戌(ママ)(一三六九)五月六日』と刻まれた題目板碑を掘り出した。他の文字は不明である」との内容が記されている。
 そして、同所にある文化十二年(一八一五)建立の碑に「開山觀照院日勝大徳」とあることを考え併せて、法眼寺について『日蓮宗寺院大鑑(昭和五十六年池上本門寺発刊)』の記していることを見てみよう。
 
  「〔祖像〕説法像
   〔仏像〕三宝尊 鬼子母神 妙見大士 摩利支天
   〔沿革〕応安二(一三六九)年の創立。開山観照院日勝。潮師法縁。(大観には開山日宝とある)」
 
 このように、当寺の開山は日勝で、応安二年に創立されたとしている。
 同所には「當寺開祖智上院日宝大徳 施主檀那中 當寺三十二世智叡(花押)」と刻まれた弘化五年(一八四八)正月建立の題目塔があり、日宝を開山・開祖としていることは前記の天保十四年文書と同様であるが、創建年号とする宝永三年(一七〇六)以前の、寛文十二年(一六七二)三月に建てられた多宝塔も同地にあることなどから、当寺の開創は少なくとも宝永三年以前であって、この年に日宝を開山とする天保十四年文書は、中途の衰退を再び隆盛ならしめた、中興の祖としての日宝のことを指しているのではないだろうか。
 なお、当寺の火災について、名主縫之丞の記録によると、「文政(ママ)十年(一八二七)十一月二十五日法眼寺焼失、天保二年(一八三一)六月小池より買入、七月再建。明治四年二月六日再焼失、六月仮屋建つ」と、このようになっている。
 かつては間口が十二間(二一メートル強)あったという本堂(過去帳)は、明治四年の焼失後、仮本堂として建てられたもので、同四十三年に大修繕が加えられ、現在の本堂は昭和九年に再建されたものである。その玄関軒先に懸けられた鐘には、「夫鐘者宣令法音之器而古佛始矣是故音聲發則貪婪進躁者足曠然以生信含哺而熙法音鼓腹而游道〓其徳至哉盖在昔倶樓孫之石鐘有南唐先君之銅鐘其益儼然〓影響然當山右鐘 嘆久之於是〓信俗靡然捐貲改鑄以〓無窮其辭日惟鐘思索允〓其極應若景雲發信難測降福穰永以無極 維文化十三年丙子(一八一六)六月住持日隆代檀越講中 南無妙法蓮華経 下之總州香取郡水戸村常照山法眼寺」と刻まれている。