当町北中に生まれた歴史家村岡良弼も、詩集『北総詩史』の一節に、
判官代
千田村、葢(蓋)、千田荘判官代平親政所レ館。今失二其址一。親政、平忠盛女婿。方三頼朝遁倚二千葉一、挙レ兵襲レ之、不レ克就レ虜。事見二于東鑑一。
久矣紛争蝸角蛮
劉顛項路夢痕残
千田村畔秋粛索
憑弔当年平判官
と賦して、千田村が千田親政の居館の地であろうとしている。
そしてここには、千田親政を追った後源頼朝が訪れたとして、幾つかの伝承が残されている。
字木城地(きじょうち)は頼朝がしばらく住んだ地といわれるところで、その西端は芝山町境いに接して、東に向かって開け、三方が台地に囲まれた畑地になっている。
字仮屋一七二番の一あたりは、現在は墓地になっているが、頼朝が木城地に館を造るまでの間、ここに仮屋を建てて住んだ場所といわれている。
伝説源頼朝仮屋跡
字古屋敷一二七番の地は、右の仮屋跡に隣接しており、かつてはこの付近が旧集落の中心であったと伝えられる廣宣寺の跡地で、あたりの畑からは多くの土器片が出土している。
字下田二〇三番には、頼朝が鏃(やじり)で掘ったと伝えられる「矢の根の清水」が、今でも杉林の奥の崖下にそのしたたりを残している。
矢の根の清水
代官屋敷跡とされるところは大字水戸字七折八七三番であるが、開発による採土作業で削られ、頼朝がくしげのときに鏡にしたという「姿見の池」は、ゴルフ場の下に埋もれて、その所在を確かめることはできない。
このように多くの伝承をもつ集落であり、広い千田庄内にあって、由緒ある「千田」を村名としたことは、当然そこに深いかかわりがあったからのゆえであろう。