大澤氏による統治
ある時代に、千田庄の支配者の住居地であったといわれていることは前記のとおりである。
支配者としてはっきりとその氏名が現れるのは徳川幕府になってからであり、徳川時代初期からその全期にわたって御料と私領の二給地であった。御料とは、天領とも呼ばれて年貢は幕府の直接経費に充てられ、水野主水・内方鉄五郎などが関東郡代配下の代官として赴任した。
千田の場合は、天領分の支配地には民家がないため、旗本知行地内の名主が天領地分まで兼務してその一切をとりしきっていた。
私領である旗本知行地は大澤氏が支配したが、その家系および支配の概要は次のとおりである。
大澤氏は総高八百五十石の旗本である。持明院家から出ているが、丹波国(京都府)大澤を所領したことから地名を姓とするようになった。
この家から分家して数代後の大澤和泉守正信は、斉藤道三に仕えて美濃国(岐阜県)に住み、斉藤家没落とともに浪人となった。次の正秀は、道三の娘を妻として豊臣秀次に仕えたが、秀次の自害によって浪人となり、小田原に住居を移した。その子正重のときから徳川家康に仕え、下総国相馬・葛飾の二郡内で六百五十石を与えられた。大坂の陣に参戦している。
信詮の代の寛文二年(一六六二)天龍川堤の普請奉行を勤めるなどして、翌三年九月に相馬郡の采地を上総国望陀郡(君津郡)へ移されたが、このときに千田は、香取郡内では一カ村だけ大澤氏の知行地になったようである。
信清の代に小性組・桐間番などを勤めて、元禄十年(一六九七)七月下総国葛飾・猿島・豊田(茨城県)三郡内で二百石加増され、八百五十石となった。以来代々小性組・書院番を勤めて、明治まで千田を知行地とした。最後の当主は大澤四郎であった。
大澤家についての年貢の内容は次のとおりである。
皆済目録之事
一、高六拾三石壱斗弐升
此差米
三拾壱俵壱斗六升 但四斗入延米口米共
内
壱俵 名主給米
壱斗弐升 組頭給米
五升 砂揚場永引
弐俵八升八合 荒地永引
壱俵三斗七升七合壱勺四才 運賃米被下
〆米五俵と弐斗三升五合壱勺四才
米弐拾五俵と三斗弐升四合八勺六才ハ 追々金納
惣〆米三拾壱俵壱斗六升
一、金三両弐分ト銭六百七拾弐文 畑方御年貢追々納
一、金弐朱ト銭六拾壱文 荒地永納
一、金壱両壱分ト銭七拾九文 来未年夫役金納
一、金壱分ト銭四百弐拾文 当午川々国役金納
右者当午年皆済書面之通相違無之者也
大澤肥前守内
安政五午年(一八五八)十二月 柴田嘉左衛門 印
飯谷豊之進 印
下総国香取郡
千田村名主代組頭
治左衛門
利右衛門
長左衛門
次に、天領と称された幕府直轄地分についての年貢の明細を参考のために示すと、次のようになっている。
戌御年貢皆済目録
一、高三拾六石七斗三升 千田村
一、米拾石四斗六升壱合
此斗立拾壱石五升九合 本途
一、永拾壱文 小物成
一、米弐斗九升九合 口米
此斗立三斗壱升六合
代永三百八拾八文弐分 但[米三拾五石ニ付金四拾三両替]
一、永三分 口永
一、米弐升弐合 御伝馬宿入用
此斗立弐升三合
代永弐拾八文三分 但口米同荒
一、米七升三合 六尺給
此斗立七升七合
代永九拾四文六分 但右同断
一、永九拾壱文八分 御蔵前入用
一、細餅米弐升六合 石代
代永七拾六文弐分 但金壱両ニ付三斗四升可へ
一、太餅米三升九合 同断
代永八拾四文弐分 但金壱両ニ付四斗六升可へ
一、同籾(もみ)三升三合 同断
代永三拾九文九分 但八斗弐升可へ
一、永拾六文九分三厘 戌より卯迠三拾年賦 種籾代返納
合[米拾壱石五升九合 永八百三拾壱文四分三厘]
右払
米壱斗六合 餅代米三割渡共
米三斗四升 運賃米渡
納合[米拾石六斗壱升三合 永八百三拾壱文四分三厘]
外永
右者去戌御年貢其外高進小物成口米永共書面之通令皆済ニ付 小手形引替一紙目録納渡条重而何様之小手形差出候共可為反故者也
享和三亥年(一八〇三)三月 滝小右衛門 印
右村
名主
組頭
百姓代