当集落には現在、寺院はなく、住民のほとんどは水戸の法眼寺を菩提寺としているが、古くは令法山廣宣寺と称した寺があった。
かつてこの集落は、西南台地上(字古屋敷周辺)に寺を中心にしてつくられていたが、後世になって、低地の水田ぎわに寺院とともに移住したと語り伝えられている。
移住の時代を知る手掛りの一つとして、移住後の寺院跡に建ち、現在でも題目講などが行われている堂の内に、廣宣寺の棟札が近年まであり、それには「建長三年(一二五一)建之」と読みとれたという。
そのころは鎌倉幕府五代将軍頼嗣の時代で、日蓮が清澄山で初めて「南無妙法蓮華経」の題目を唱えて新しい宗門日蓮宗を開いた二年前の年である。このことから考えると、右の棟札は台地から低地へ移ったときのものではなく、台地の字古屋敷に建てられていた天台宗もしくは真言宗であったときのものといえよう。
移築されたといわれるところは低地帯の字滝ノ脇七十番地あたりで、上・下総国境いの旧道から分かれて東へ向かう道沿いであるが、千田から芝山町打越へ通ずる新道が後方の丘の上に造られたため、農道から寺院跡地へ入るような感じである。入口に立つ題目塔がなければそれとはわからないほど竹が密生している。
丘の南面は平地であるが二段になっていて、前段の西奥には池跡があり、字(あざ)名にも残る滝の水がこの池にそそいでいたのでもあろうか。後段の平地は丘の中腹で、その左手に墓地があり、右手にある堂の場所は、旧本堂跡ということである。
旧道からの入口に題目塔(約一メートル)があって、「南無妙法蓮華経 廣宣寺 後五百歳中廣宣流布 文化三丙寅天(一八〇六)正月吉祥日 當寺十八世瀧王日誠 本妙院日幸聖人 〓光院日遵聖人 立行院日将聖人」とあり、墓地の中にあるほぼ同じ大きさの題目塔には「南無妙法蓮華経 高祖大師五百五十遠忌報恩 開山日祐 二世日活 三世日圓 四世日寿 中興日堯 二世日慈 三世日教 五世日長 六世日修 七世日實 八世日宣 九世日進 十世日応 十一世日徧 十二世日健 十三世日亮 十四世日誠 十五世日暁 十六世日雄 十七世日観 本願主十六世日雄 秋葉利左衛門 同勘左衛門檀方中 天保二年辛卯(一八三一)十月十七世日観代」と、歴代の名が刻まれている。
この題目塔に、開山として日祐の名が見えるが、十四世紀初めに下総一帯を布教し、多くの寺院を日蓮宗に改宗させた中山法華経寺三世浄行院日祐と同一人物だとすると、以前は他宗であった当寺が、このときから日蓮宗寺院となったことによって「開山日祐」としたものと思われる。それは改宗寺の多くが開山を日祐としていることからもうなずけよう。
そして、他の例に見られるのと同じように、不受不施派弾圧にかかわって衰退した寺運を再び隆盛ならしめたのが「中興日堯」なのではないだろうか。
境内の墓石の一つに「当山卅一世泰善院日明聖人 明治廿八年旧九月十二日 檀家中」とあることから、そのころまで寺はあったようである。
また、詳しい年月は不明であるが、明治のある時期に寺籍を長崎県南高来郡南有馬町浦田九五六番へ移し、有馬山廣宣寺となって現在に続いているということである。
なお、同時代に書かれた『社寺明細帳』に同寺は載せられていない。
往時の様相を知るものはほとんど残されていないが、火の見に懸けられた直径約三〇センチ余の半鐘があり、それには、「下總國千田村令法山廣宣寺什宝 中古岩信徳院當住智滝 世話人サカイ幸左衛門隠居 チダ長左衛門 サカイ勘左衛門隠居 チダ利右衛門 施主銘々現女 善祈 弘化三年午(一八四六)五月吉日 (以下判読不能)」の字が読みとれた。