ビューア該当ページ

村の支配者

542 ~ 552 / 1100ページ
 村の支配者については、区有文書の中に文政元戊寅年(一八一八)六月、名主藤右衛門組頭次右衛門百姓代長右衛門らによって作られた『下総国香取郡林村検地水帳』があり、その末尾に書かれた次の一文がよく支配者の変遷を浮きぼりにしている。

林村文書

   古来より林村之御領主
 鎌倉右大将頼朝公之御時、千葉介常胤殿之御弟千田次郎右衛門胤幹殿之御領地と相成、其後大隅守胤貞殿之御時ニ至り肥前国へ御移り被遊候。而して嫡子孫太郎胤平殿従前之如くに千田之庄を御知行被遊候。
 康正元乙亥年(一四五五)八月中務丞胤 殿之御時、千葉之介胤直殿と共尓(に)多古城ニて御生害被遊候ニ付、遂に断絶尓及び候。
 其より牛尾権頭殿御領地と相成、能登守胤仲殿之御時ニ至リ、天正十八年庚寅年(一五九〇)小田原落城と共に其旗下尓属し居り候故没落致し候。
 天正十九辛卯年(一五九一)保科彈正忠様御知行と相成候。其時御奉行大熊大膳様・三枝伝左衛門様御両人御下り被遊、田畑反別御検見村高御定免被下候。慶長六辛卯年(ママ)(一六〇一)信州へ御国替ニ相成候。其節御年貢等未進及遅滞候ニ付水帳御取り上けニ相成、其後水帳無之高帳壱通有之候。其より長谷川七郎左衛門様御支配と相成、慶長九甲辰年(一六〇四)土方掃部頭様御拝領、其之時御奉行加茂宮治兵衛様御下り被遊御検見被下候て、右高帳を以て御相給御三人分に引き分け、水帳相調ひ御下け渡し被下候。
 而して前々より有り来り候田畑反別へ御公儀様御定免之石盛ニてハ高百弐拾弐石七斗尓足り不申候故、高へ相応する石盛を以て御書付被下候。然れ共猶高相応之石盛ハ甚た位高き盛ニて候故、惣百姓難渋至極之旨申上候処、物成御割付之義ハ田ハ反別ニよりて取り米を御定免被下、畑及屋敷も亦反別尓よりて永銭を以て御定納被仰付候。誠に難有次第ニ御座候。
 加茂宮治兵衛様は寛永拾酉年(一六三三)四月六日病没せられ、法名を法性院円信居士と申され候。後年ニ至り村民相謀りて報恩之為供養之石塔を建設仕り候。以上
   慶長拾五庚戌年(一六一〇)より土井大炊頭様御支配佐倉領
   寛永拾癸酉年(一六三三)より石川主殿頭様御支配佐倉領
   寛永拾弐乙亥年(一六三五)より堀田加賀守様御支配佐倉領
   寛永拾九壬午年(一六四二)より堀田加賀守様御支配佐倉領
   寛文元辛丑年(一六六一)より松平和泉守様御支配佐倉領
   延宝六戊午年(一六七八)より大久保加賀守様御支配佐倉領
   貞享三丙寅年(一六八六)より戸田山城守様御支配佐倉領
 元禄拾四丁丑年(辛巳)(一七〇一)六月能登守様之御時越後国高田城へ御移り被遊候。其より御旗本有馬治郎兵衛様御支配、御屋敷ハ江戸木挽町筑地尓御座候
     八郎右衛門様
     伊織   様
     勇五郎  様
 御代々御知行被遊候、以上
有馬勇五郎様御知行下総国香取郡林村百姓 藤右衛門 長右衛門 伝左衛門 佐左衛門 甚左衛門 権左衛門 治右衛門
  藤左衛門 勘兵衛 源五右衛門 惣右衛門 七郎兵衛 藤兵衛
  右藤右衛門より分地
  治兵衛 庄右衛門
  右治右衛門より分地
  左右衛門
  右佐左衛門より分地
  八兵衛
  右佐兵衛より分地
  平兵衛
  右源五右衛門より分地
 
 以上が全文であるが、佐倉藩領であった時期の領主諸氏については通史に譲り、元禄十四年(十一年か)に戸田氏が転封となって大名支配から離れ、村全体が旗本支配地になったときから述べることにする。
 松下氏による統治
 最初にここに入った旗本は松下清九郎重氏で、元和八年(一六二二)に当時の佐倉藩主土井氏が支配していた村高三百十石一斗四升の内から九十八石一斗を分けられて知行した。
 松下氏は、三河国(愛知県)碧海郡松下郷の郷士であったことからその郷名を姓としている。重氏は、下総国香取郡・武蔵国(埼玉県)児玉郡の二郡内で二百五十石を拝領し、将軍家光の子の御抱守役などを勤めた後、寛文十一年(一六七一)九月二十日に六十七歳で没している。
 半之丞之備(ゆきまさ)のときの元禄十年(一六九七)七月に常陸国(茨城県)真壁・新治・筑波郡内で加増があって六百五十石となり、具足奉行などを勤めた。明治に至るまで当村はその知行地の一部として続いたのであるが、郡内での地行地は他に森戸・香取があり、明治維新時の当主は由之助と称した。
 そして当村が松下家に納めた年貢の状況は次のようになっている。
 
     卯御年貢皆済目録
  高九拾八石壱斗    下総国香取郡
                  林村
   一、米三拾弐石七升三合      本途
   一、米五石五斗四升四合      延口米
              但本米三斗五升ニ延米五升
               本米壱石ニ付口米三升
   一、永三百四拾三文壱分      見取
   一、永弐百六拾壱文壱分      小物成
   一、永三百七拾五文        山永
   一、永弐拾九文四分        口永
   一、永三百七拾五文      萱苅夫永
   一、胡摩六升           正納
   一、永拾貫文    亥より卯迠 年賦
                  質地請戻金拝借返納
    一、永壱貫弐百文        右利金
                    但年壱割弐分
     米三拾七石六斗壱升七合
   合永拾弐貫五百八拾三文六分
    胡摩六升
      此訳
     米八斗    名主給米渡
     米六斗    池代米渡
     米六升    胡摩代米渡
     米三拾四石壱斗壱升  御廻米
     米弐石四升七合 六分運賃米渡
 
     米三拾四石壱斗壱升
   納合永拾弐貫五百八拾三文六分
     胡摩六升
   右者去卯御年貢本途其外共令皆済ニ付小手形引上一紙目録 渡上 重而小手形差出候共可為反古ものなり
     文化五辰年(一八〇八)三月
                              松下内匠内
                               鈴木与市郎
                                         右村
                                           名主
                                           組頭中
 
 中根氏による統治
 次に土井氏領地の内から九十一石二斗四升を分けられて、寛永五年(一六二八)に林村の一部を知行地としたのが旗本中根氏である。
 中根氏は三河国(愛知県)額田郡中根の郷士で、その地名の中根を姓とした。元亀・天正の戦いにも加わった武勲の家で、天正十九年(一五九一)五月に武蔵国(埼玉県)高麗郡久米郷で二百石の知行取りとなるが、大隅守正成(まさなり)が慶長十年(一六〇五)二月に、下総国臼井領吉田郷内で二百石加増され、大坂の陣の戦功で元和元年(一六一五)十二月には上総国武射・長柄、武蔵国賀美の三郡内で千石を加えられている。さらに元和九年(一六二三)六月に武蔵国都筑郡内で二百石、下野国(栃木県)芳賀郡内で四百石、寛永五年(一六二八)八月上総国周准・武射、下総国香取の三郡内で千石が加えられ、このときに林の一部が中根氏の知行地になったようである。
 寛永十二年(一六三五)十二月にはさらに下総国匝瑳・香取の二郡内で二千石加増され、合わせて五千石の旗本となったが、万治二年(一六五九)二月老により致仕(辞職して隠居)し、寛文十一年(一六七一)九月四日八十五歳で没した。
 これより先、その子日向守正勝は、慶安四年(一六五一)十一月に上野国(群馬県)山田、下野国梁田の二郡内で千石を加えられて千五百石となっていたが、父正成の致仕とともに家督を継いで五千石を知行することになり、それまでの知行千五百石は父の隠居料に充てられた。その子正延のとき六千石となり、子孫は代々駿府城代などの諸役を勤めて明治に至るまで当村の一部を知行地とした。郡内での知行地は他に森戸・香取・新市場・大友・飯高・川島・坂・須賀山があり、明治維新時の当主は錬次郎であった。
 当村が中根家に納めた年貢は次のとおりであるが、この年貢算定の基礎となった石高は、はじめ九十一石二斗四升であったものが、百十一石三斗七升九合八勺三才と増えている。このことは、ここを知行地とした三人の旗本の中では中根氏の場合だけであり、現在の資料では、増石の理由や時期は不明である。
 
      当戌ノ御年貢皆済目録之㕝(事)
   (割付高百拾壱石参斗七升九合八勺三才)
  一、御米百六俵弐斗九升六合 御定免納辻也
  一、金弐両ト七百六拾壱文  山永納也
  一、金弐両三分 奉公人壱人分御給金納
  一、米四俵者  奉公人給米ニ被下置候
  一、米弐俵者  名主給米ニ被下置候
  一、米壱俵者  組頭年番料ニ被下置候
  一、米壱俵者  定使給米ニ被下置候
  一、米壱俵弐斗ハ 堰扶持ニ被下置候
  一、米四俵者  字大林膳棚御田地旱損御引方ニ被下置候
  一、米壱斗ハ  百性庄右衛門老母江扶持米被下置候
  一、米五俵者  当戌年御引方ニ被下置候
    八口〆米拾八俵三斗 村方江被下置候
  差引〆御米八拾七俵三斗九升六合
     代金五拾八両弐分弐朱ト鐚弐百三拾三文  銭相場両ニ六貫七百文也
  一、金拾五両
     此利金弐両三分弐朱ト鐚三百三拾四文
  戌ノ二月日
  一、金五両此利金弐分弐朱    先納御上納
  同三月日
  一、金五両此利金弐分弐朱    先納御上納
  同四月日
  一、金五両此利金弐分壱朱    先納御上納
  同五月日
  一、金五両此利金弐分      先納御上納
  同六月日
  一、金拾両此利金 弐朱     先納御上納
  同八月日
  一、金拾両此利金弐分弐朱    先納御上納
  同閏八月日
  一、金五両此利金壱分      先納御上納
   〆元金六拾両
   〆利金七両ト鐚三百三拾四文
   元利
   〆金六拾七両ト鐚三百三拾四文
  一、米代金山永奉公人壱人分御給金
  差引
   〆金四両分ト鐚百七拾弐文   過上納也
   右之通り皆済目録奉差上
     文久二年戌(一八六二)十二月日
                                    下総国香取郡林村
                                     百姓代 長兵衛 印
                                     組頭  久兵衛 印
     御地頭所                            同   清兵衛 印
     御役所                             名主  嘉兵衛
     御役人衆中様
    表書之通於令皆済者重而小手形等出候共可為反古者也
                                 御上京御供ニ付無印
                                       千 栄
                                       千 小平太 印
                                       伊 八十八 印
 
 有馬氏による統治
 また元禄十年代(一六九七~一七〇三ころ)に佐倉藩主戸田氏領地百二十二石七斗を、戸田氏に替わって知行地とするのが旗本有馬氏である。
 有馬氏は、室町時代の武将赤松氏からの系といわれ、祖先が摂津国(兵庫県)有馬郡を采地としていたことから有馬を姓としたという。
 寛永十年(一六三三)二月に、武蔵国(埼玉県)埼玉郡内で七百石の知行地を得たのが最初で、治郎兵衛重廣のとき元禄十一年(一六九八)に埼玉郡の知行地を下総国香取郡内に移されたが、このときから林の一部を知行することになったものであろう。
 
 (注)「文政・天保の武鑑佐倉城の項」や「寛政重修諸家譜戸田家項」では戸田家の佐倉移封が元禄十四年となっており、前掲の区有文書も、同十四年に戸田氏と有馬氏が交替したことを記しているが、「寛政重修諸家譜有馬家項」には元禄十一年に香取郡内を知行したことが記されている。
 
 重廣は小性組番などを勤めた後、享保二年(一七一七)八月二十九日に七十七歳で没した。その子孫は代々書院番などを勤めて明治までここの一部を知行したが、郡内での知行地は他に和田(神崎町西和田)・鴇崎(ときざき)・西坂・吉原の各村であった。明治初期の当主は彦之進である。
 有馬家の年貢は次のようであり、同家支配下にあった百姓は、前掲の「古来より林村之御領主」後半に記したとおりである。
 
    丑年御年貢皆済目録
                                     有馬彦之進上知
                                     下総国香取郡
                                          林村
  高百弐拾弐石七斗
   米三拾三石四升六合八勺五才八毛 延口米とも
    永弐貫五百八文五分      畑本永反ニ付平均百五拾文取
    永四百壱文六分五厘      糯わら代
    永百拾七文壱分        口永
    合[米三拾三石四升六合八勺五才八毛 永三貫弐拾七文弐分五厘 延口米永とも]
      内
     米八斗        名主給
     米六斗        池扶持年々引
   小以
     米壱石四斗
  納合[米三拾壱石六斗四升六合 延口米永とも 永三貫弐拾七文弐分五リン]
                                        右村
     慶応二年寅(一八六六)ノ三月日                     名主 長右衛門
      御地頭所様