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三社大神社

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 字新林六九六番の一にある。ふもとに人家が並ぶ丘の上で、深い木立につつまれている。入口の石段を一〇段ほど登ると木の鳥居があり、本殿は木造草葺きで三メートル四方ほどの大きさである。本殿前の石造手洗いは明治十二年に奉納されたもので、「越川長右衛門」の名が刻まれている。明治に作られた『社寺明細帳』には次のように記されている。
 
     千葉県管下下総国香取郡多古町林字新林
                                    無格社 三社大神社
  一、祭神 天照大神 八幡大神 春日大神
  一、由緒 慶長壬寅年(一六〇二)十月勧請ノ由古老ノ口碑ニ伝フ
  一、社殿 本殿
  一、境内 弐千七百九拾三坪
  一、氏子 五拾五戸

三社大神社

 また、明治四年五月に兼庄屋木川三郎兵衛・什長松本嘉兵衛・伍長平山源右衛門などが宮谷県に提出した『社寺地立木取調書』には、目通り一メートルから二・八メートルの松杉が七七本あったことが記され、当時のたたずまいの一端を伝えている。
 この神社の由緒について前記の平山捨太郎氏が、口碑を次のように書き残している。
 
 三社大明神之事並稲荷大明神之事
 往昔、人皇六十代醍醐天皇の御宇延長年中の頃(九二三~九三〇)田子村に鎮座まします天照太神は、隣郷一体の惣社なる故、月の三ケ日は云ふに及ばず、平日も参詣の人々群集せり。然る所に田子村は遠くして不便利なりとて、各村々へ社を建立ありしとなり。
 其の頃大林村と云ふ所の長サ(おさ)・高橋刑部も亦一社を建立仕り度、朝暮心願に及びけり。然れども四方の峰々多くして、何れの峰を社地に致すべきやと思い惑ひし故、これは太神の御神託を請ひ奉りて定めんとて、折柄夏のことなりしが身を清め、一七日(ひとなぬか)が間日天子を礼拝なし奉り、何卒社地になるべき峰を知らせたまへと一心不乱に祈りける所に、七日目に自然とまどろみけるうち、夢の中に童子二人来りて、汝能くも社地を心にかけて願ふものかな、此の扇子を持ちて暑気を凌ぐべしとて各々一本づゝ二本与へける。刑部其の扇子を受取りて、いと有り難きことなりとて頂く内に童子二人消え給ふ。今頂く内に消えたるは化生のものか、但しは神の告げなるかと、不思議の念を抱きたり。然れども手に二本の扇子を持てり、右の手に持てるを開き見れば、「折折は白気の上る峰もあり」との一句を書きつけあり。又左の手に持てるを開き見れば「神のまします所なりとぞ」と書き付けあり。これを読み終ると夢は醒めけり。刑部目醒めて益々不思議に思ひ、二本の扇子に書きたるを合はせ見るに一首の歌なり。
   折々は白気の上る峰もあり 神のまします所なりとぞ
 刑部その旨を案じて、白雲の立ち上る峰こそ神の御座所なりと思ひ、誠にこれは日天子の教へ給ふ所か、いと有難きことなりと礼拝なし奉り、それより毎朝日天子を拝して峰々を見るに、鬼門に当りて白雲の立ちし峰あり、彼所こそ誠に教へ玉ふ所なりと思ひ、見はなさず其の所へ行きて見れば、雲気の下草木も生へず、二間四方程甚だ奇麗なる所あり、此所こそ神のまします所なりとて、則(すなわち)田子村の天照太神を移し奉り、二人の童子を八幡・春日の二神と定め、天照太神を添へ奉りて三社大明神と祭り、村の鎮守と仰ぎ奉り、小さなる仮宮を建立致しけるとなり。維時延長五丁亥年(九二七)なり。
 現在の三社太神社殿は、人皇百九代後光明天皇の御宇承応三甲午年(一六五四)に建立せるものなり。
 又東の峰に稲荷神社を建設し、豊受比賣尊を祭りて村人皆伊勢両宮の如く崇め奉り、村内安全・五穀豊穣を祈念し、霊験顕らかなり。山の麓に御手洗井あり、清水湧き出でゝ如何なる旱魃にも涸るゝことなく、付近の田を浴して其の恵沢の大なることは世人のよく知る所なり。故に根の井戸と称するなり。
 
 境内にある木造の小祠には、安産子育ての神といわれる鬼子母神、養蚕守護神である蚕社様の二神が併祀されている。